こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【寛政の改革】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
寛政異学の禁 寛政二年(1790年)
「武士の気風を統一するため、朱子学以外の儒教を禁じる」という内容です。
もう少し踏み込んで説明しますと、幕府関連の教育機関で朱子学を徹底させよう――というもので、全国的な命令ではありません。
また「異」の字が入っているため勘違いしがちですが、外国の学問=蘭学を禁じたものではありません。
なにせ、この時代の蘭学=西洋の学問は、自然科学や医学に関することが主体で、幕府が危惧するような政治的思想が薄かったためです。
禁令が出る一年前、1789年にはフランス革命が起きていますので、もしそういった自由的思想が入りそうだったら、定信も全ての西洋学問を排除したかもしれませんね。
ともかく思想の統一のために学問を制限する、というのは言論統制に繋がりやすいものです。
それを危惧した儒教の他の学派に属する学者たちは、この禁令に大反対しましたが、幕府は強行。
結果、朱子学以外の学派は廃れ始め、私塾をたたむ学者も出ました。
各地の藩についてはそこまで厳正な縛りがあったわけではないのですが、結局は、江戸に釣られるカタチで、徐々に朱子学が中心になっていきます。
ただし、御三家の一つである尾張藩や、井伊直政や井伊直虎でお馴染みの彦根藩、あるいは東北の秋田藩では別の学派の儒学者を採用していました。
幕府からのお咎めはないので、定信の狙いは「幕府に直接関わる武士の思想統一」だったのでしょう。
尊号一件などを経て老中職を辞す
改革には含まれませんが、定信の時代には【尊号一件】という、朝廷と幕府のちょっとしたトラブルが起きています。
ときの帝・光格天皇が、父の閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう)に太上天皇の尊号を贈ろうとして、幕府(主に定信)が異を唱え、朝幕関係が冷え込みかけた……というものです。
閑院宮家は、六代将軍・徳川家宣の時代に創設された、比較的新しい宮家。
血筋や歴史の長さを何より重んじる皇室では、傍系というか、格下にみられがちな立ち位置です。
しかし、他に皇位を継げる男子がいなかったため、光格天皇が選ばれました。そういった引け目もあって、光格天皇は父宮に尊号を贈ろうとしたのでしょう。
結果的に、光格天皇の義母にあたる後桜町上皇が、
「称号を送るより、貴方様の御代が長く続くことのほうが親孝行になりますよ」
と光格天皇を諭したこともあり、何とか収まっています。
最後の女帝・後桜町天皇が国母と称される理由~尊号一件で見せた存在感とは
続きを見る
このため、家斉が実父・一橋治済へ大御所の称号を与えようとしたときも、定信らの大反対で実現に至りませんでした。
「皇室にさえ例外を認めなかったのに、将軍家でそんなことができるか!」というわけです。
改革自体の効果は大きくなく
その後、定信は寛政五年(1793年)7月、老中及び将軍補佐役を退くことになります。
権力的には大御所同然だった治済の心象を大きく損ねたこと。
改革自体が効果絶大ではなかったこと。
といっても、しばらくは「寛政の遺老」と呼ばれる重臣たちによって、似たような施策が続きます。
寛政の改革で行われたその他の項目は主に以下のようなものがあります。
・倹約せよ
・大奥の出費おさえよう
・米価と物価の引下げ
・ぜいたく品は作っても売ってもダメ
・お酒造りは控えめに
・米を貯めよう
・妓楼の新設は禁止
・混浴禁止
・出版物の中身を見せろ
・医学館の官営化
・昌平坂学問所を設立
みなさんも同感していただけると思うのですが「特に大きく何が悪い」という感じもしないんですよね~。
実際、その後、白河藩で藩政を担ったときは善政を敷いて民にも好かれたという話もあります。
定信には、江戸幕府という舞台が大きすぎたのかもしれません。
なお、松平定信当人にスポットを当てた記事は以下にございますので、よろしければm(_ _)m
松平定信は融通の利かない堅物だった?白河藩では手腕抜群でも寛政の改革で大失敗
続きを見る
あわせて読みたい関連記事
田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む
続きを見る
鬼平犯科帳のモデル・長谷川宣以(長谷川平蔵)ってどんな人だった?
続きを見る
最後の女帝・後桜町天皇が国母と称される理由~尊号一件で見せた存在感とは
続きを見る
享保の改革は失敗か成功か?目安箱や米政策をはじめとした吉宗の手腕
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「寛政の改革」「棄捐令」「人足寄場」「寛政異学の禁」