曲亭馬琴

曲亭馬琴/国立国会図書館蔵

江戸時代 べらぼう

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家~日本エンタメの祖

2024年には映画『八犬伝』が公開され、2025年の大河ドラマ『べらぼう』でもおそらく際立った存在となるであろう――最近、曲亭馬琴の注目度が高まっています。

滝沢馬琴という名でも知られる江戸時代の代表的な作家です。

ちなみに『岸辺露伴は動かない』に出てくる漫画家・岸田露伴の愛犬「バキン」の名前も彼からとられたとか。

なぜ彼は、これほどまでに根強い人気と知名度があるのか?

もしかして作品が素晴らしいだけでなく、人間的も面白い人だったりして……なんてことも考えられそうですが、むしろ真逆です。

この曲亭馬琴、性格的にかなりの難があり、交友関係は乏しく、近寄りがたい存在でした。

同時代の文化人たちからは「傲慢で性格最低な野郎だ」と敬遠され、師匠である山東京伝との関係すらもかなり複雑で、京伝の弟・山東京山からは「恩知らず」と罵倒されています。

打算ありきで結婚した妻の百にしても何かとトラブルがち。

とにかく“嫌われ者の作家”という評価が定番でしたが、明治時代になって彼の日記が発見されると、馬琴は馬琴で苦しんでいた寂しい人――そんな評価も後世では付けられてゆきます。

ヒット作を連発し、日本におけるエンタメの基本形を作ったとも言える曲亭馬琴は一体どんな人物だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵

 

武士の子として生まれた強情な少年

明和4年(1767年)、江戸深川の旗本・松平信成の屋敷で、後に曲亭馬琴となる男児が生まれました。

幼名は倉蔵。

父は信成に仕える滝沢興義で、母は門です。

夫婦にとって五男である馬琴は幼いころから聡明で勉学を好む一方、強情で頑固、カッとなると暴力的になるところがあったとされます。

父の滝沢興義は酒と犬を好む剛毅な人物。

それで深酒がたたったのか、安永4年(1775年)、倉蔵がまだ9つのときに急病死してしまいました。

兄・興旨が家督を継ぐも、わずか17歳だったため、禄は半減。

しかも翌安永5年(1776年)に、わずか一年で滝沢家を去って戸田家に移ってしまい、下の兄も他家に仕えていたため、まだ10歳の倉蔵に滝沢家の家督が巡ってきました。

 

出奔を繰り返す放浪時代

倉蔵は一人で滝沢家に残り、主の孫である八十五郎の相手役を務めます。

しかし、この八十五郎がどうにも倉蔵には耐えがたかった。

身体虚弱であることは仕方ないにせよ、愚鈍としか思えない。

馬琴は成長してからも相手が誰であろうと素っ気ない対応をしていましたから、たとえ主君の孫であっても許すことができなかったのでしょう。

安永9年(1780年)、こんな書き置きを残して、突如、出奔してしまうのです。

木がらしに 思いたちたり 神の供

弟の出奔に驚き胸を痛めた兄は、戸田家に仕える自分のもとに倉蔵を引き取ると、その後は元服して興邦と名乗り、徒士として仕えることとなりました。

訳あり出奔した頑固な弟です。

兄や母としては、やっと就職先を見つけたといったところでしょう。

しかし本人は「俺は徒士でおさまる器じゃない」と野心をたぎらせながら、ひたすら狂歌を詠み、文章を書くことにばかりかまけていました。

そして天明4年(1784年)、戸田家すらも出奔してしまいます。

兄としても面目がたたず、弟の罷免を主家に申し出ると、ついに自由を手にした興邦。

やる気がないなら人間関係を破壊してでも自由を求める――後に周囲を呆れさせるこの悪癖は若い頃から一貫していると言えるのかもしれません。

天明5年(1785年)、苦労を重ね、病に苦しんでいた母・門が亡くなりました。

手元には22両ものへそくりがあり、子どもたちで分けるようにと言い残していました。この母が危篤となったとき、家族が興邦を探し回ったというのですから、困ったもの。

このころの興邦は、叔父・田原忠興や前述の戸田家はじめ、いくつもの場所を転々としていました。

あるときは俳諧。あるときは医術。

腰を落ち着けることなく、住む場所も職業も変転する放浪時代でしたが、彼も単に遊んでいるわけではなく、むしろその誇り高さゆえに折れることができず、腰が落ち着けられなかったのです。

流浪の中、彼は「馬琴」の号を用いるようになります。

ここからは「曲亭馬琴(馬琴)」で統一しましょう。

寛政2年(1790年)、馬琴は一人の文人を師とさだめます。

人気戯作者の山東京伝です。

このとき馬琴24歳。

得体の知れない馬琴を京伝も初めは断りました。

推薦状も何もなく、いきなり押しかけられ困惑したことでしょう。

しかし寛大なのか、根負けしたのか、弟子にするとは言わないものの、出入りを許します。

そこには恵まれた家で育った京伝らしい鷹揚さがありました。

 

山東京伝のもとで食客 蔦谷重三郎のもとで手代

曲亭馬琴は、水を得た魚のように、才能を発揮し始めました。

洪水により、深川の家を失った馬琴は、京伝の食客として居着くと、執筆に邁進。

一方で師匠の京伝は、ちょうどこのころ戯作者として「手鎖」の刑を受けてしまいました。

経済が活性化した田沼意次の時代が終わり、松平定信の改革が始まると出版物にも取締りが及ぶようになり、人気作家である山東京伝はスケープゴートのように罰を受けてしまったのです。

育ちがよく、温厚で気弱なところもある京伝は、執筆意欲を失ってしまいます。

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こうして、すっかり落ち込んだ師に代わり、ぐいぐいと精力的に代筆をこなしていったのが馬琴でした。

いつしか馬琴はその才能を見込まれ、寛政4年(1792年)には蔦屋重三郎のもとへ手代として雇われます。

しかし、武士としての誇りがある馬琴はこれを屈辱に思っていたようで、どうにもやる気が出ず、自分の創作に必要な教養を吸収することばかりに執心。

剛毅な蔦屋重三郎もこれには困りはて、手放したいと思うようになったようです。

大河ドラマ『べらぼう』ではどんな風に描写されるか、楽しみなシチュエーションですね。

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