曲亭馬琴

曲亭馬琴/国立国会図書館蔵

江戸時代 べらぼう

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家~日本エンタメの祖

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
曲亭馬琴
をクリックお願いします。

 

中国古典を使いこなす驚異的な創作テクニック

馬琴の代表作ともいえる『南総里見八犬伝』は、驚きに満ちた冒頭部から始まります。

以下にざっと要約いたしますと……。

里見義実は、安西景連により攻められ、もはや家は滅びる寸前となった。

このとき義実は、愛娘である伏姫の愛犬の八房に語りかける。

「もしも憎き敵の首を取ってくれば、お前に伏姫をくれてやろう」

すると八房は姿を消し、景連の首を取ってきた。

伏姫は犬であろうと約束は約束であると父を説き伏せ、八房と共に山中へ姿を消す。

やがて伏姫は身の異変に気付く。

八房との間に子が宿ったのか、犬の子を産むなど屈辱の極み――そう悩んだ伏姫は自害をしようとする。

そして許婚が伏姫を見つけたそのとき、彼女が腹を切ると、光る八つの玉が飛び散った。

あまりに衝撃的な内容ですが、元となる話はあります。

中国の怪異伝説を記した『捜神記』にある盤瓠(ばんこ)という犬の話です。

敵に攻められた高辛氏が、敵将を討った者に娘を娶せると御触れを出すと、盤瓠という犬が首を取ってきたというものです。

そして、この話の後半部は「盤瓠と娘の間に子が生まれる話」となるのですが、馬琴はこの後半部を変え『水滸伝』と組み合わせました。

封印された百八の魔星が飛んでゆき、英雄好漢女傑に宿る――伏姫の体から飛んだ玉を持つ八犬士をめぐる物語は、かくして始まるのです。

インプットした知識をアレンジしてエンタメ化する。

馬琴は、そんな才能に恵まれた作家でした。

光る君へ感想あらすじレビュー
『光る君へ』を読み解くカギである「漢詩」は日本にどう伝わりどう変化していった?

続きを見る

大長編となったこの『南総里見八犬伝』は、実に連載期間は28年に及び、馬琴のライフワークとなっています。

江戸時代の大長編連載作家といえば『膝栗毛』シリーズを21年間書き続けた十返舎一九がいます。

十返舎一九は、大ヒット作が『膝栗毛』のみであり、作者本人も辞めるにやめられなかったような哀愁を感じさせるものです。

しかし馬琴の場合、生来の執拗な性格と溢れる生命力が人生の一部となり、この大長編を生み出したような荘厳さをも感じさせます。

作家としての力量は本当に申し分ない。

その一方で私生活は苦労の連続でした。

 

馬琴の大変な家庭事情

馬琴の師である山東京伝は、生き方そのものが優雅で風流そのものです。

最初の妻も、その妻の病死後に娶った再婚相手も遊女の出身であり、熱烈な恋と真摯な愛情がある夫婦となりました。

では、その弟子・曲亭馬琴は?

というと、前述の通り打算による結婚であり、妻の百とは生涯理解しあえることはなかったといえます。

しかし二人は一男三女に恵まれており、その子供たちから見た馬琴は、おそるべき毒親でもありました。

親としての愛情は深い。

ただ、あまりに重い。

馬琴は娘の結婚相手を厳しく吟味し、気に入らぬことがあれば交際に猛反対し、その仲を引き裂きました。

それでもようやく長女の幸が清右衛門という婿を迎え、分家を作ることができました。

一人息子の鎮五郎は、大変な重圧と共に生きていました。

父は大柄で頑健であるにもかかわらず、息子は虚弱体質で気も弱い。

馬琴は我が子に期待をかけ、ともかく厳しく育てあげます。

その辺の平凡な子と遊ぶことすらよしとせず、行儀作法を叩き込むと、やがて彼は信心深く、織り目正しい青年に成長してゆきました。

馬琴は己が挫折した医術を極めさせようとし、「宗伯」と名乗らせます。

父のファンであり、松前藩の元当主である松前道広の好意もあり、宗伯は武家に仕えることができました。

これで武家としての滝沢家復帰が叶う――馬琴はそう喜んだものの、宗伯はとにかく病弱です。

父の名声があるからこそ、日々の勤務ができなくても俸禄を与えられる立場であり、こんな状況が続けば、精神が鬱屈し、精神的に追い詰められてもおかしくないでしょう。

宗伯は、妻の路(みち)を娶りました。

ところが宗伯はこの妻を労わろうとするどころか、自身の鬱屈を彼女にぶつけました。

その様はあまりに理不尽。路が病に苦しんでいても、服薬すら許さず、ときに癇癪を起こして妻を殴る。

今でいうところのDV夫です。

人は往々にして、受けたストレスをさらに下位の者にぶつけることで発散すると言いますが、宗伯からは、まさにそんな不健全な精神性を感じさせます。

馬琴と百は仲が悪い。

宗伯は父の目をうかがい、鬱屈を路にぶつける。

百も路をいびる。

あまりに殺伐とした家庭ですから、自邸で働く下女も長く続かない。

そうした様子は、細やかにつけられた馬琴自身の日記によって伺えます。

馬琴はあまりに几帳面でした。

一日のルーチンにこだわりがあり、部屋にあるものを勝手に動かされるだけで怒り狂います。

下女が逃げ出すのもやむなしといったところでしょう。

 

大名だろうが塩対応 文人と揉め版元も困る

馬琴は気難しい性格です。

ファンサービスを求めてくるのがたとえ大名だろうと、すげなく断ることすらあり、文人や版元とも当然ながらよく揉めました。

師匠である山東京伝を暴露するような本を出し、あることないこと書いたこともあります。

温厚な京伝本人はそれをあしらうものの、弟の山東京山は「この恩知らずが!」と激怒。

馬琴は、日頃のストレスを辛口の批評やゴシップ暴露に費やす悪癖があり、それを京山は許せませんでした。

京山は如才ない男です。

トラブルメーカーの長男とは縁を切り、娘に婿を持たせる。

大名家から「ファンです、うちに来てお話ししませんか?」と言われようが、怒涛の塩対応をする馬琴とは異なり、そつなく付き合うことができた。

妻の履物屋を畳んだ馬琴とは異なり、父と兄の商売もきっちりこなす。

いわば頭のキレる陽キャですから、馬琴とは気が合うわけもありません。

この京山とのトラブルは、周囲にまで悪影響を与えています。

越後の鈴木牧之は、豪雪について描いた随筆出版をめざしており、馬琴と親しく文通していました。

しかし馬琴は業務多忙となり、牧之とは疎遠となります。

そこで彼は京山を頼りにし、それが『北越雪譜』として結実しました。

すると馬琴がこれに怒り、鈴木牧之との仲が一時断絶してしまったのです。

まったくもってややこしい性格をしている――そんな馬琴の家に、短いながらも居候した絵師がいます。

あの葛飾北斎です。

葛飾北斎
葛飾北斎は何がすごいのか? 規格外の絵師 その尋常ならざる事績を比較考察する

続きを見る

馬琴作品の中に入る挿絵を頻繁に描いていた北斎については、打ち合わせの都合もあったのか、北斎が転がり込み、それを馬琴が許すという不思議な状況が生じたことがあったのです。

ただし、この“変人コンビ”は解消されてしまいます。

馬琴がある程度レイアウト指定や構想を語っても、北斎がそれを破って自己流を通して揉めたとか、ギャラ高騰が理由であるとか、諸説あります。

コンビ解消後は一切交際がなかったとも、あるいは付き合いそのものは続いたとも……。

映画『八犬伝』は後者を採用し、馬琴の家に出入りする北斎が、馬琴の執筆を見守る重要な役目を果たします。

『椿説弓張月』葛飾北斎の挿絵/国立国会図書館蔵

馬琴自身は、戯作者としてだけではなく、学者としても名を為したい思いがあったとされます。

特に、儒教と国学に深く傾倒しており、もう少し後年に生まれていたら幕末明治の動乱に身を投じていたかもしれません。

そんな馬琴と交友した人物として知られるのが渡辺崋山です。

宗伯の写実的な肖像画『滝沢琴嶺像』も彼が手掛けました。

しかし華山が【蛮社の獄】で囚われの身となると、馬琴は助命嘆願に対して冷淡な態度で周囲を失望させました。

保守的な馬琴は、華山のように先進性のある思想には共鳴していないだけでなく、とにかく頑固であり、ルール違反に不寛容なこともありました。

幕府に背いたのであれば、獄死やむなしと考えてもおかしくはないでしょう。

渡辺崋山作『滝沢琴嶺像』/wikipediaより引用

儒教思想を守る馬琴は、女性に対しても潔癖かつ差別的であってもおかしくありません。

彼自身も宗伯も、女遊びとは無縁。

潔癖であることはよいにせよ、遊郭を舞台とするような洒落た作品は描きようがありません。

工藤平助の娘である只野真葛との文通を介した交流も、彼女の先進的な思想や儒教批判に反発し、一年ほどで終わっています。

しかし、そんな馬琴の創作活動と、なによりも『南総里見八犬伝』完結は、ある一人の女性なくしてはできなかったことは歴史の奇跡ともいえるかもしれません。

それが宗伯の妻である路でした。詳細は後述します。

ともかく作家として大人気となった馬琴。

大名やその夫人たちまで読み漁り、ファンとして推し、彼の作品を題材とした錦絵はじめとするメディアミックスは大盛況となります。

それなのに馬琴は、己の利益にもならない毒舌評論を書き連ねる――生来のトラブルメーカーといえました。

版元にしても、何度も何度もしつこく校正を入れる完璧主義者の馬琴に対して、嫌気がさしているほど。

売れっ子だから仕事を頼まざるを得ないけど、本音では面倒くさいと思われている、そんな作家です。

なお馬琴は、日本史において版元に原稿料を請求した最初期の一人とされています。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-江戸時代, べらぼう
-

×