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【紫衣事件】
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幕府への抗議を込めて突然譲位する
これに対し、ときの帝である後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が大きく機嫌を損ねます。
この方は歴代の天皇の中でも、特に自分の意志をはっきり表す御方でした。
紫衣事件についてはかなりご立腹だったらしく、幕府への通達無しで、娘である興子内親王(明正天皇)に突然譲位してしまうのです。
後水尾天皇が春日局にブチ切れて譲位~非常に微妙だった朝廷と幕府の関係とは
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突然の譲位を重く見てか、罰された僧侶たちは天海の取りなしにより、三年ほどで罪を許されて江戸に帰りました。
しかし、許されてからも二年の間は帰京を許可が出ず、宙ぶらりん状態になります。
罰されたうちの一人・沢庵宗彭は徳川家光の信頼を得て、帰京した後は毎年江戸に参上し、繰り返し紫衣勅許に対する理解を求めていたといいます。
最終的には、「京都所司代の承認を経てからならOK」という形で落ち着き、幕府と朝廷の火花は収まりました。
家光自らが上洛しての歩み寄り
紫衣事件により、朝廷と幕府の仲は冷え込むかに見えました。
しかし、寛永十一年(1634年)に家光自ら上洛し、後水尾上皇に謁見して院政を認めるなど、幕府側が歩み寄る態度を見せています。
家光は将軍就任時(元和九年=1623年)と、後水尾天皇の二条城行幸の際(寛永三年=1626年))にも上洛していますし、後水尾上皇の中宮は家光の妹・和子(東福門院)なので、直接会って話したほうがいいと判断したのでしょうか。
寛永十一年の上洛の際は、家光は姪である明正天皇や和子にも謁見しています。
家族という点を利用して、数年間続いていたであろう紫衣事件の余波を収めようとしたのかもしれませんね。
こうして京都との揉め事は一段落したのですが、この後【島原の乱1637-1638年】が起き、家光時代のトラブルはまだまだ続くことになります。
よろしければご一緒に島原の乱のあらましもご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「紫衣事件」