松平信平

徳川家光/wikipediaより引用

江戸時代

超名門貴族を家出した松平信平が向かった先は?将軍家光に気に入られ徳川一門へ

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いつしか「鷹司松平家」と呼ばれるように

家綱は孝子を正式に「母」扱いできませんでした。

孝子の存命中はあれこれ気を使っていたようですが、亡くなったときに喪に服すことができませんでした。

その代わりに、弟の信平を厚遇したのではないか……という気がします。

といっても定府(=江戸にずっといていい)という身分にしてもらえたため、領地に赴くことはなく、その後は江戸で穏やかに暮らしていたようです。

信平からすれば「何もしてないのに給料上がった。ラッキーw」みたいな感じだったかもしれません。

まぁ、家綱が優しい人だということがわかるイイ話ということで。

その後「鷹司松平家」と呼ばれるようになった信平の家は、孫の代に加増を受けて大名となりました。

途中で紀州徳川家から養子を迎えたこともありましたが、その後、信平の子孫と交互に藩主をやったり、信平の子孫と紀州系の人が結婚したりしているので、最終的には血筋は変わっていません。

 


思いきいりの良さで幕末も乗り切った

明治に入る直前に「吉井」と姓を改め徳川家と決別、その後も存続しています。

戊辰戦争の際、武家では最後まで去就を迷った家も少なくありませんでしたが、この辺は藩祖譲りの思い切りというところですかね。

しかし、お寺はともかく、他の家に養子へ行くより江戸に行くほうがマシに思う理由って、一体なにがあったんですかね。

どうせなら、その辺を書き残しておいてほしかったものです。

実は、信平以外にも公家から武家への転身をした人はいるのですが、それ以上にエキセントリックな行動をした人もいたりして。

特に江戸時代となると、幕府の顔色や習慣・世間の目でがんじがらめだった武家と比べて、一部の公家のほうが自由に動いている感すらあります。

立派な家も、それはそれで大変ってことですかね。


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長月 七紀・記

【参考】
日本人名大辞典
日本史諸家系図人名辞典
松平信平/Wikipedia
鷹司松平家/Wikipedia

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