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【松平信平】
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いつしか「鷹司松平家」と呼ばれるように
家綱は孝子を正式に「母」扱いできませんでした。
孝子の存命中はあれこれ気を使っていたようですが、亡くなったときに喪に服すことができませんでした。
その代わりに、弟の信平を厚遇したのではないか……という気がします。
といっても定府(=江戸にずっといていい)という身分にしてもらえたため、領地に赴くことはなく、その後は江戸で穏やかに暮らしていたようです。
信平からすれば「何もしてないのに給料上がった。ラッキーw」みたいな感じだったかもしれません。
まぁ、家綱が優しい人だということがわかるイイ話ということで。
その後「鷹司松平家」と呼ばれるようになった信平の家は、孫の代に加増を受けて大名となりました。
途中で紀州徳川家から養子を迎えたこともありましたが、その後、信平の子孫と交互に藩主をやったり、信平の子孫と紀州系の人が結婚したりしているので、最終的には血筋は変わっていません。
思いきいりの良さで幕末も乗り切った
明治に入る直前に「吉井」と姓を改め徳川家と決別、その後も存続しています。
戊辰戦争の際、武家では最後まで去就を迷った家も少なくありませんでしたが、この辺は藩祖譲りの思い切りというところですかね。
しかし、お寺はともかく、他の家に養子へ行くより江戸に行くほうがマシに思う理由って、一体なにがあったんですかね。
どうせなら、その辺を書き残しておいてほしかったものです。
実は、信平以外にも公家から武家への転身をした人はいるのですが、それ以上にエキセントリックな行動をした人もいたりして。
特に江戸時代となると、幕府の顔色や習慣・世間の目でがんじがらめだった武家と比べて、一部の公家のほうが自由に動いている感すらあります。
立派な家も、それはそれで大変ってことですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
日本人名大辞典
日本史諸家系図人名辞典
松平信平/Wikipedia
鷹司松平家/Wikipedia