池田継政

池田継政/wikipediaより引用

江戸時代

江戸時代で最もフシギな離婚劇~なぜ池田継政は伊達の嫁を送り返したのか

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官位昇進したい同藩のスケベ心もあり……

池田継政は、これ以前にもたびたび病気療養と称して下屋敷に引きこもっていたことがあるため、それに対する不信もあったのでしょう。

ちなみに正室がいるのは上屋敷です。

大名は江戸滞在中、職務と私生活の都合がいい上屋敷にいなければならないので、怪しまれても仕方がありません。

おそらく日頃の継政に対する伊達家の感情は悪くなかったのでしょう。

もとから継政に対して悪く思っていたのならば、「昔からいけ好かないヤツだったが、あの野郎やっぱりやりやがったな!」という雰囲気の記録になるはず。

ともかく「いい人が突然キレた」みたいな状況になった継政は、責任をとって藩主の座を息子に譲り、隠居しようと考えました。

このとき嫡男・宗政は10歳になっていましたので、家老の助けがあれば何とかなると思ったのでしょう。

しかし、この時点での継政が、池田家の極官(その家の人がつける一番高い官位)になっていなかったので、家臣たちは隠居を押し留め、官位昇進に向けて動きました。

家格に関わることとはいえ、これだけ大騒ぎしといてなかなか図々しい発想かなぁと。

離婚騒ぎについてはその年のうちになぜか収まり、継政は42歳のときに左少将に任官され、極官となりました。

しかし隠居したのはその8年後、50歳のときです。もうワケワカメ。

 


幕府からはお咎め無し 伊達家とは絶交状態に

ちなみに宗政のほうが先に亡くなったため、孫の治政がさらに跡を継ぐことになりました。

治政は相続の時点で15歳でしたので、幼君というほどでもありませんが、おそらくは亡くなるまでは後見していただろうといわれています。

幕府からは深く追求されなかったようです。

◆池田氏の当主

池田輝政

池田利隆

池田光政

池田綱政

池田継政

池田宗政

池田治政

一方で、相手先の伊達家とは当然のごとく絶交状態となりました。

交流が再開したのは継政の死後、治政の代のことです。

治政が祖父に事情を聞いたかどうかはわかりませんが、「おじいさまは一体何を考えていたのだろう(´・ω・`)」と思ったことでしょう。

大名同士が仲良くし過ぎると幕府に疑われるとはいえ、その真逆になる必要もないわけですから。

池田家の記録では「奥方様には斬り捨てられても当然と思うような行状があった」とされています。

しかし、他に同様の記録がないので信じがたい話です。もうちょっと具体的に書いてくださいよー。

「記録に残すのは憚られて、なおかつ殺されても文句が言えないような理由」って一体何だったんでしょうねぇ。

ちなみに父の池田綱政(つなまさ)は江戸時代きっての【バカ殿】扱いされるお方です。

必ずしも「そうとは言い切れないんではないか?」と疑問を呈す方もおりますが、それでも典型的バカ殿な記録を残されてしまっています。子供70人も作ってますし……。

よろしければ以下の記事と併せてご覧ください。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
大名の離婚をめぐって : 岡山藩池田継政の場合/大森 映子
池田継政/wikipedia

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