池田継政

池田継政/wikipediaより引用

江戸時代

江戸時代で最もフシギな離婚劇~なぜ池田継政は伊達の嫁を送り返したのか

元禄十五年(1702年)8月17日は、岡山藩の三代目藩主となる池田継政(つぐまさ)が誕生した日。

姫路城を「白鷺城」にした池田輝政の子孫ですね。

江戸中期の大名というと、だいたいお金の話や財政再建の話が主でしたが、この人はまた一風変わった出来事で後世にインパクトを与えています。

一体何をどうした人なのか、振り返ってみましょう。

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絵に描いたような名君がナゼ突然?

“継”政(つぐまさ)は、パッと見ちょっとややこしい“綱”政(つなまさ)の次男。

兄が早世したため、嫡子として藩主の座を引き継ぐことになりました。

「継」の字は七代将軍・徳川家継からの偏諱で、「政」は池田家の通字です。

仏教への信仰が篤く善政を敷いたとされ、飢饉のときも岡山だけは一揆が起こらなかったといわれるほど慈悲深い人でした。

また、絵画や書道、能の才も持つ文化人でもありました。

ここまでは絵に描いたような名君なのですが、35歳のとき突然暴挙をはたらきます。

当然この歳になれば結婚して子供もいるわけですけれども、なんと幕府と相手先に一切相談なく、正室を離縁して実家に送り返してしまっているのです。

正室は、仙台藩の五代目藩主である伊達吉村の娘・和子でした。

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ものすごくざっくり紹介しますと、「お家騒動の後始末をつけつつ、絵を得意とする風流な大名。ただし理屈くさい」という感じの人です。

もしかしたら、絵に関しては義理の親子で話をしたことがあったかもしれませんね。

池田継政は20歳で和子と結婚しているので、この時点では15年連れ添っていることになります。

また、二人の間では嫡男・宗政を授かっており、表面上はさほど問題があったとも思われません。

 


「離婚したんで後はヨロシク」前代未聞の書状を幕府へ

江戸時代の大名の結婚・離婚は政治上の諸々を防ぐため、幕府を通して行うものでした。

現在のように当事者同士で決められるものではありません。

諸々の事情で離婚したという例がないわけではありませんが、池田継政のように突然というのは前代未聞のことです。

しかも「離婚しました。事後報告したんでヨロシク」(超訳)と大胆にもほどがある届け出をしています。度胸ありすぎ。

もちろん幕府もビックリ仰天し、「離婚したのはわかったけど、どういうことなの?^^」(※イメージです)と詮議をかけました。

池田家の親戚にも「どういうことか知らない? 親戚の証言は重要だからヨロシク^^^^^^」(※イメージです)と探り&プレッシャーをかけています。

伊達家側の文書では、以下のような記録が残されております。

「池田殿は下屋敷に身分の低い者どもを大勢招き入れるなど、けしからぬことをしています。

そのため、池田家の家老どもは池田殿に愛想を尽かして閉じ込め、嫡子・宗政殿に毒を盛り、池田殿の弟である正純殿を立てようとしました。

しかしそのために奥方が邪魔になったので、池田殿の了承を得ずに離縁させたのです」

平たくいうと「池田殿の素行が悪いせいで家臣が謀ったんだろ?」ということです。

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