『初代中村仲蔵の斧定九郎』勝川春章/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

なぜ勝川春章は歌麿や北斎を世に送り出した偉大な絵師なのに本人は無名なのか

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歌舞伎の隆盛高まるブロマイド【役者絵】

当時の江戸画壇は、武士の絵である狩野派や、中国由来の南蘋派(なんぴんは)といった画風を継承しながら、文人ネットワークの中で楽しむ状態でした。

いわば風雅な趣味の延長であり、庶民を相手にした商業ベースには乗っていません。

勝川春章が生きたのは、そうした伝統が変わりつつある時代でした。

例えば、歌舞伎人気の高まりにあやかって、狩野派は役者を描き始めています。

昔の日本画を見ていて「どれも似たような顔だな……」と感じてしまったことはありませんか?

平安時代の【引目鉤鼻】はその典型であり、時代がくだって肖像画となると、モデルの顔の特徴が盛り込まれていきますが、それ以外の絵といえば美男美女を様式美で描くものでした。

ネットスラングに「判子絵」という言葉があります。

似たような美形キャラの顔を、判子で押したようにパターン化して描く、マイナスのニュアンスを含むキーワードでしたが、当初の浮世絵は、まさにこの「判子絵」の世界。

客も、決まりきったワンパターンだからこそ安心して買える、そんな状況が続いていました。

しかし、これに異を唱える絵師も現れます。

勝川春章もその一人。

宝暦14年(1764年)あたりから、役者の顔の特徴を取り入れた【役者絵】を発表し始めるのです。

江戸時代に愛されたエンタメといえば、なんといっても筆頭が歌舞伎でしょう。

当時の悪所といえば、男が入り浸るのが遊郭で、女が入り浸るのが歌舞伎座とされ、猥雑さも漂う魅惑の場所とされました。

そんな歌舞伎役者を描くときも、当初は「判子絵」状態だったのですが、勝川春章が一石を投じたのです。

いったい春章はどんな絵を描いたのか? 江戸っ子の心を鷲掴みにした、その一例がこちら。

『初代中村仲蔵の斧定九郎』勝川春章/wikipediaより引用

あまりに斬新な勝川春章の【役者絵】に、江戸っ子たちは度肝を抜かれました。

役者の個性や演技の迫力だけでなく、舞台の熱気まで伝わってくるようだ!

従来の判子絵とは違う斬新な衝撃があり、新作を出せば飛ぶように売れた春章の役者絵は、全部で1,000点以上あるとされます。

役者の顔が迫るような【大首絵】という技法が用いられ、推しの顔がデカデカと躍る【役者絵】に、江戸っ子は夢中になったのです。

こうなるとチャリンチャリンと音が聞こえてきますよね。

古今東西、悪所は莫大な金が動きます。

吉原では何をするにせよ金が落ちる。

歌舞伎では、熱狂的なファンが「推し活」を展開。役者のファッションを真似る。推しカラーを身につける。ブロマイドである【役者絵】は、当然のことながらど真ん中の売れ筋した。

ファンたちは推しの特徴を捉えた【役者絵】を買い漁ってヒット商品が生まれ、勝川派は浮世絵師の中でも一大流派となるのでした。

しかし、ここで一つ考えたいこともあります。

春章は、師匠から【美人画】の技法を会得していました。

「春」という画号には、柔らかな雰囲気だけでなく、花ひらく艶やかさも感じられるでしょう。

立役(たちやく)がキリリと凄む【役者絵】は確かによく売れる。定番だ。

しかし本音を言えば……美人を描きたい!

春章の心の奥底に流れる、そんな欲求を叶えたのが、蔦屋重三郎でした。

 

まるで夢の世界「青楼美人合姿鏡」

安永5年(1776年)、蔦屋重三郎は、勝川春章と北尾重政という仲良し絵師コンビに“ある絵”を手掛けさせます。

『青楼美人合姿鏡』です。

「青楼」とは漢籍由来である遊郭の雅称であり、吉原にいる美女が見せる姿態を描いた錦絵本です。

勝川春章『青楼美人合姿鏡』/国立国会図書館蔵

高級感があるため、一般に向けて売り出すというより

「遊女がなじみ客に渡した豪華限定本ではないか?」

と目されています。

しかし、これこそ蔦屋重三郎の強みが発揮された画期的な作品でした。

吉原に生まれ育ち、書店「耕書堂」を開いた重三郎。

四季折々の遊郭行事を熟知し、製本販売ルートも身につけ、さらには絵師を探す人脈ネットワークがあればこそ実現した作品だったのです。

おそらく『べらぼう』の劇中でも、なじみ客に書物を渡す遊女や、それをうっとりしながら眺める客の姿が見られることでしょう。

さらに、本書の画期的なところは中身だけでなく

“販売ルートの拡大“

という意味もありました。

版画の強みを活かし、吉原遊郭で話題にすれば次の商機も見えてくる。

やはり勝川春章は『べらぼう』前半を彩る絵師であり、欠かせない……のではありますが、ヤリ手の重三郎が全力でプッシュした【美人画】のエースはあくまで喜多川歌麿です。

喜多川歌麿
喜多川歌麿の美人画は日本一!蔦屋と共に歩んだ浮世絵師は女性をどう描いたか

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リアル路線の大首【役者絵】がこうも売れるのであれば【美人画】はどうか――その発想力と企画力で喜多川歌麿をプロデュースし、押しも押されぬ絵師に育て上げるのです。

江戸の絵師同士を繋ぐネットワークの中心に居たのは蔦屋重三郎。

発想が発想を生み出し、江戸では常に新しい浮世絵が生み出されてゆきました。

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