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【久米幸太郎の仇討ち】
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五十鈴神社の麓で襲撃
寺社での仇討ちはご法度のため、幸太郎は、黙照が外出した帰路の祝田浜(いわいだはま)で待つことにしました。
具体的には五十鈴神社の麓で襲撃することにしたのです。
以下、仇討ちのくだりは物語風に語ります。あしからず。
――安政四年(1857年)10月9日。
幸太郎が五十鈴神社で待ち潜んでいると、仇の黙照が通りかかった。
息を呑みつつ、物陰から出て、呼びかける。
「滝沢休右衛門か」
「誰だ?」
「拙者は久米弥五兵衛の遺児、久米幸太郎なるぞ!」
突然のことに狼狽する黙照。
幸太郎の横には旧知の藩士もいて、もはや言い逃れはできない。
観念した様子の黙照も、既に82歳の老人であり、年老いた仇の姿に幸太郎は一瞬ためらいを覚えたが、すぐに意を決する。
父の仇に一太刀を浴びせ、さらにとどめを刺した――。
こうして幸太郎が本懐を遂げたとき、仇討ちの旅から30年、父・弥五兵衛の殺害からは41年の月日が流れていました。
幸太郎、その後の人生は?
7歳で父を殺され、18歳で仇討ちの旅に出て、30年後、もはや死期は近いであろう老人を殺して思いを遂げる。
壮絶としか言いようがありません。
そして仇討ちを終えた彼の後半生も、幸せとは言い難いものでした。
青年期から壮年期までずっと仇討ちの旅をしていたので、実務や経営のノウハウが身につくはずもなく、帰郷後についた奉行の職も、明治維新後に始めた事業も、うまくいかなかったようです。
明治6年(1873)、明治政府の法令により、仇討ちは禁止されます。
自分が人生をかけた行為が犯罪とされる社会になってしまった――それを幸太郎はどんな思いで見ていたのでしょうか。
明治24年(1891)、幸太郎は数奇な生涯を終えました。
数え年で82。皮肉にも、仇敵滝沢休右衛門と同じ享年でした。
石巻市には、今も久米幸太郎仇討ちの地に石碑が残っています。
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三城俊一・記
【参考】
石巻観光協会(→link)
『堂々日本史〈18〉』(→amazon)