寛政12年12月10日(1801年1月24日)は工藤平助の命日です。
今のところ、かなりの江戸時代好きでないと知らない名前かもしれませんが、来年には様子が変わってくるかもしれません。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』前半で描かれる田沼意次に大きな影響を与えた人物なのです。
本業は仙台藩医であり、同時に意次の目を蝦夷地へ向けさせた学者の一面もあり、迫りくるロシアの脅威を早くから訴えていました。
なぜ医者にそのようなことができたのか?
工藤平助の生涯を振り返ってみましょう。
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江戸で生まれ、医術を学ぶ
享保19年(1734年)、紀州藩江戸詰の藩医・長井大庵に三男となる長三郎が生まれました。
長井大庵の諱は「基孝」であり、「大庵」は医者としての名乗り。
江戸時代は職掌ごとに名前が変わるものでした。
長三郎は三男の末子ということもあってか、あまり学問をせず、のびのびと育てられますが、13歳のときに人生が一変します。
父・大庵の友人に、工藤丈庵という医者がいました。
仙台藩に仕えており、藩医の座がちょうど空いたところであり、51歳の丈庵にその座を得る機会が巡ってきたのです。
しかし藩医となるには妻帯が条件。
丈庵は28歳の妻を娶ることにしましたが、当時としてはかなりの高齢です。
そのため養子もとることにして、白羽の矢がたったのが丈庵の友人である大庵の三男・長三郎でした。
かくして仙台藩医の子となった長三郎は、将来の道が定められると知識を身につけるため勉学に励み、様々な才能が花開いていくこととなります。
なお、ここから先は「工藤平助」と記載します。
学問に花ひらく才能
平助の養父・工藤丈庵は、文武両道の人物で、柔術・剣術・弓・槍・馬までこなしました。
将棋や絵にも通じていて才知あふれる人物。
丈庵は、医学ではなく、まず当時の学問の礎となる漢籍教養を長三郎に教えることとしました。
江戸時代を通して、日本人男性の教育の基礎は漢籍読解となり、身についていないと「無教養」の烙印を押されます。
平助もまず、四書五経を身につけることにしました。
そこで丈庵は、幼い平助に『大学』を渡します。
漢字だらけの本を寝食も忘れ、必死でかじりつくように読む平助。へとへとになってやっと読み終えたかと思えば「今度はこれだ」と『論語』が渡される。
平助は十日ほどで四書を読みこなし、二~三ヶ月後には漢籍読解をこなせるようになりました。
江戸時代の学問とは自由がなく、堅苦しいというイメージがあるかもしれませんが、基礎さえ学べばあとはむしろ自由度が高いともいえます。
江戸時代も半ばを過ぎると、様々な知識が日本中に渦巻き、身分を超えて学ぶ機会もありました。
当時は文系と理系という区別もありません。
芸術系も教養に入り、そこから先は数多の知識を身につけてゆくことになります。
学ぶことが好きで吸収の早い才人にとっては、ともかく楽しい、そんな日々が待ち受けているのです。
平助はたちまち学問にのめり込み、もっと早く学んでおけばよかったと悔やむほどでした。
江戸詰の仙台藩医嫡男は、学ぶには最高の環境が揃っていました。
漢方医学は実父の長井大庵、中川淳庵、野呂元丈。
国学者の村田春海。
家族ぐるみでつきあいのあった三島自寛。
蘭学を医学に取り入れていた杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢、桂川甫周。
儒学者の服部昆陽。
そして儒学者でありながら蘭学に通暁している青木昆陽。
オランダ通詞の吉雄幸作。
彼を通じてオランダ経由の西欧に関する知識を得ることもできています。
平助自身はオランダ語や蘭学を学ぼうとしたわけではありません。
しかし、徳川吉宗以降の時代、学ぼうと思えば蘭学への関心や知識が流れ込んでくる状況にあります。
江戸の文人はネットワークを形成しており、その流れの中には常にオランダの知識が流れ込んでくる。
この流れの中には、北の大国たるロシアに関する情報も含まれていました。
仙台藩医となる
宝暦4年(1754年)、21歳になった工藤平助は工藤家300石の家督を継ぎ、医師として剃髪しました。
翌年、養父の丈庵が没しています。
それから数年もすると、工藤平助は江戸中で名医として知られるようになってゆきました。
諸大名から裕福な商人まで、彼の診察を受けようとわざわざ訪れるほどで、患者のみならず弟子志願者も多く門を叩きます。
医学以外にもさまざまな才知を発揮した平助は、仙台藩有力家臣の覚えもめでたく、藩主にしても自慢の名医。
江戸詰であるため、さまざまな有名人との交流も生まれてゆきます。
平助の意外な才能として“料理人”が挙げられます。
アイデア豊かな彼の料理はのちに「平助料理」と呼ばれ、彼の料理は藩主も舌鼓を打ったほど。
役者の中村富十郎がわざわざ料理を食べに工藤家にやってきたこともあるとか。
身分制度が綻びつつある時代らしく、彼の家には歌舞伎役者も侠客も、はたまた博徒まで出入り。
平助は江戸っ子らしい人付き合いがよくさっぱりとした人柄で、分け隔てなく幅広く付き合う人物だったのです。
江戸は人脈が重要ですので、キャラクターは非常に重要でした。
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