工藤平助

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

蝦夷地の重要性を田沼意次に認識させた工藤平助~仙台藩が誇る多才な医者だった

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仙台藩の誇る才人として

工藤平助の時代、仙台藩主は伊達重村でした。

映画『殿、利息でござる!』では羽生結弦さんが演じた人物です。

彼は田沼時代の大名らしく、華やかで派手、厳しい言い方をすれば少々軽薄なところがある人物といえます。

伊達重村/wikipediaより引用

そんな重村の耳に、某藩の名物俗医師である梶原平兵衛の噂が入ってきました。

俗医師とは剃髪しない医者のことであり、例えばフィクションの『赤ひげ先生』が該当します。

すると安永5年(1776年)頃、仙台藩主・伊達重村は平助に還俗蓄髪を命じました。

梶原平兵衛と対抗させようとしたわけです。

この話は平助の娘である只野真葛が著した『むかしばなし』の中に書き留められています。

築地に大きな二階建ての屋敷を建てた平助の元には、さらに多くの人が出入りするようになりました。

仙台藩の誇る才人となり、私塾「晩功堂」も開いて、ますます人脈も広まってゆくのです。

 


赤蝦夷:ロシアの脅威に備え 蝦夷地を開拓せよ

文化が爛熟してゆくこの時代、不穏な空気も流れ込んでいたことは確か。世界史規模で、地球が狭くなっていくような変化があらわれつつありました。

西洋諸国で航海技術が発展すると共に、東洋にある資源への需要が開かれていったのです。

代表例として、イギリスの茶葉への需要があります。

ポルトガルから英国王室のチャールズ2世へ嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザがもたらしたとされる茶の習慣は、イギリスで広まってゆきました。

キャサリン・オブ・ブラガンザ/wikipediaより引用

しかし茶葉は中国から輸入するしかない。そこで西からの目線が東へ向けられるようになっていったのです。

日本でもその目線を意識してのことか。

国学者が台頭し、国を憂うようになってゆきました。例えばその一人である高山彦九郎も、工藤平助と交流がありました。

さらに注目したいのが、平助より4歳下の仙台藩士だった林子平です。

子平は幕臣であった父が致仕し浪人の身となっていたところ、仙台藩へ奥女中奉公に出ていた姉が6代藩主・宗村の側室となり、その縁で仙台藩に取り立てられたのです。

子平は長崎から蝦夷まで歩き回り国防に開眼し、『三国通覧図説』を著しました。

工藤家にも出入りしており、親戚といえるほど親しく付き合い、子平の『海国兵談』序の筆を執ったのは平助でした。

知識がとめどなく流れ込んでくる平助の耳には、切迫感を帯びた噂が入ってきます。

ロシアの脅威です。

西洋諸国の中で、最もアジアに近いロシア。松前藩士やオランダ人の情報を入手するうちに、その危険性をひしひしと感じるようになってゆくのでした。

国立国会図書館蔵

只野真葛は『むかしばなし』の中に、こんな描写を残しています。

平助はあるとき、田沼家用人とこんなやりとりをした。

我が主君は、何か偉業を成し遂げた老中として歴史に名を残したいと仰せになっている。

すると平助は、蝦夷地から貢物を得ることにしたらどうか?と提案。そのために『赤蝦夷風説考』を書き始めた。

動機の詳細はさておき、天明元年(1781年)4月、平助は『赤蝦夷風説考』下巻まで書きあげ、天明3年(1783年)には同上巻を含め、ほぼ完成させておりました。

天明元年(1781年)は田沼意次が権力掌握を成し遂げた歳でもあり、確かに平助の赤蝦夷ことロシアに向けた目線と、田沼時代は一致しています。

田沼意次/wikipediaより引用

田沼意次の右腕ともいえる松木秀持は、この『赤蝦夷風説考』をもとに蝦夷地政策を献策し、実現することになります。

ただ、田沼時代が終焉後の回想である点には注意が必要です。

松木秀持の提案は採用され、蝦夷地探検が大々的に行われました。平助が蝦夷奉行に就任するという話も出回ったとされます。

しかしこのころ工藤家には災難が襲いかかっています。

天明4年(1785年)、築地の家が焼けてしまったのです。

 


田沼派失脚の煽りを受け、医師として生きる

天明6年(1787年)、10代将軍の徳川家治が亡くなりました。

これにより庇護者を失った田沼意次は失脚。その他の田沼派たちもみな幕閣を追われてゆきました。

田沼時代のあとを継いだ松平定信は方針を転換し、対ロシア政策も、蝦夷地経営も、工藤平助の案はすべて不採用とされます。

松平定信/wikipediaより引用

平助はロシア情報の聞き書きをし、精度を高めるべく努め『工藤万幸聞書』を記していました。

しかし時代が変わるとそうした知識は禁忌とされ、工藤平助の事績は埋もれてゆきます。

林子平の『海国兵談』にしても、その内容は『赤蝦夷風説考』を踏まえて書かれています。平助が序を執筆したことも当然と言えるでしょう。

それなのに、只野真葛の回想では、平助は拒んでいたとされます。

『海国兵談』は発禁処分とされたため、なるべく関わりを薄くしたかったのだと思われます。

田村時代の終焉は、工藤平助にも暗い影を落としました。幕府から仙台での蟄居が命じられたのです。

経済的に困窮しつつも平助は、江戸で医師として著述家としての活動を続け、医学書『救瘟袖暦』の執筆等を手がけていました。

すると寛政9年(1797年)7月、8代藩主・伊達斉村の次男であり、まだ生後10ヶ月に過ぎない徳三郎が熱病に罹りました。

これを治療すると、平助はあらためてその名を知らしめ、褒美を賜ったのでした。

徳三郎は後に10代藩主・伊達斉宗となっています。

そして寛政12年12月10日(1801年1月24日)に死去。

享年67。

家督は二男の源四郎が継ぎました。

医者としてだけでなく、ありとあらゆる知識が豊富で、幕閣や役者にまで認識されていた工藤平助。

当時はただならぬ才人として名が知られていました。

彼の娘である只野真葛は、父への敬愛をこめて筆をとり、その人柄を伝えることとなります。

只野真葛は、田沼時代を「山師」の時代と振り返っています。

娘として父を「山師」呼ばわりはしにくいでしょう。

とはいえ、同時代を生きる人は平助をそう捉えていても不思議はありません。

気宇壮大でユニークな人柄である工藤平助もまた、時代の子、田沼時代の「山師」の一人であったと思えます。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
藤田覚『田沼意次』(→amazon
関民子『人物叢書 只野真葛』(→amazon

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