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【鱗形屋孫兵衛】
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蔦屋重三郎、吉原に書店を開く
鱗形屋孫兵衛は三代目であり、生まれながらにして書肆としてのノウハウを持っていました。
一方で蔦谷重三郎はどうか?
重三郎が養子に入った喜多川氏の屋号「蔦屋」は茶屋です。
茶屋といっても、遊郭内にある場合は単にお茶を飲ませる店ではありません。
吉原の客は、いきなり廓へのぼるわけにはいかず、客は茶屋を通してからでないとあがれないのです。
そんな茶屋に育ち、客と遊女を観察する機会があった重三郎。
江戸の遊郭は社交の場でもあり、茶屋の酒宴には、文人、絵師、版元など、文化の香りをまとう名士が数多く出入りしていました。
そうした動向に触れているうちに、重三郎が出版業のアイデアを思いついても不思議はない。
もちろん茶屋ですので、出版自体のノウハウはありませんが、出入りする名士たちが「蔦谷重三郎は話のできるできた人サ」と話題にしてもおかしくありません。
実際、そうした人間としての魅力や持ち前の機転が彼を出版業へと導きます。
安永元年(1772年)、重三郎は書店「耕書堂」を開きました。義兄である次郎兵衛の茶屋の隣、吉原入口に書店を開いたのです。
そして、安永2年(1773年)、吉原の需要に応じた商品を売り出すことにします。
それが江戸っ子憧れの的「新吉原」のガイドブックである『吉原細見』でした。
![『吉原細見』](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2024/09/8af55af8ec5c59ccdc47e2b71ab7d472.jpg)
元文5年に発行された『吉原細見』/wikipediaより引用
江戸時代の書店とは本を売るだけでは成立しません。
貸本業も兼ねなければ採算が取れず、ここで点と点がつながり、線が引かれる過程が見えてきます。
鱗形屋からすれば、吉原事情通の蔦屋はうまみがある。
蔦屋からすれば、鱗形屋の出版知識と流通は使える。なんとしてもここから売れ筋の本を借り、貸本として並べたい。
知識豊富な三代目と、吉原で生まれ育った才気あふれる粋人は利害で結びついてもおかしくはありません。
安永年間の明暗
そんな両者が交錯するのが安永年間(1772年ー1781年)、十代将軍・徳川家治が治めた時代です。
安永3年(1774年)には『解体新書』が発売され、安永8年(1779年)には平賀源内が没しました。
いわば出版や文人の動きも活発な時代。安永8年(1779年)は桜島が大噴火した年でもあります。
安永4年(1775年)、鱗形屋孫兵衛は画期的な作品を世に送り出しました。
恋川春町による『金々先生栄花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)であり、黄表紙という新ジャンルを築いたベストセラーでした。
その詳細は以下の記事に譲らせていただき、
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恋川春町の始めた黄表紙が日本人の教養を高める~武士から町人への出版革命
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この年は、手痛い事件も起きていました。
大阪の版元である柏原与左衛門と村上与兵衛による『早引節用集』(はやびきせつようしゅう)という辞書がありました。
「早引」とつくように、気軽に引けるものであり、これに鱗形屋の手代・徳兵衛が目をつけ『新増節用集』と改題し、無断で鱗形屋から売り出したのです。
実は江戸時代にも“版権”の概念はありました。
同じものを出版することを【重板】と言い、類似品を出版することは【類板】と呼ばれます。
版元同士で互いにこれはせぬようにと呼びかけていたものの、機能せずに抜け道を探ることは頻発しました。
しかし、この時は幕府にまで目をつけられ、幕府認定の重板事件として大打撃となりました。
失態を犯した徳兵衛は家財欠所、十里四方追放とされました。鱗形屋も無傷ではいられず、孫兵衛も罰金二十貫文を課せられているのです。
それのみならず、世間から「信頼のおけねぇ連中だ」と思われたことでしょう。
江戸最大手の老舗にとって、手痛い失態です。
鱗形屋は売れ筋である『吉原細見』出版をも一時見合わせることになりました。
安永5年(1776年)、今度は蔦屋重三郎が『青楼美人合姿鏡』(せいろうびじんあわせすがたかがみ)を発行します。
「青楼」とは、漢語由来の遊郭を格調高くよぶ言葉です。
北尾重政と勝川春章が美を競うように、吉原の遊女たちを描いた書物であり、季節の風物、行事、雪月花、さらには遊女が詠んだ句があしらわれた美しい作品です(文化遺産オンライン→link)。
![青楼美人合姿鏡](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2024/10/a5087aae157dd3dc73244601ccf63296.jpg)
勝川春章『青楼美人合姿鏡』/国立国会図書館蔵
安永6年(1777年)あたりまでが、鱗形屋にとって最後の輝きでした。
新ジャンルである黄表紙を多数手がけ、恋川春町と朋誠堂喜三二という文人も確保しています。
それが安永8年(1779年)ともなると、鱗形屋も、その流通ルートにいた蔦屋も、ピタリと快進撃が止まってしまうのです。
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