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【鱗形屋孫兵衛】
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消えた鱗形屋
鱗形屋に一体何があったのか?
安永10年から天明元年となったころ(1781年)、大田南畝が『菊寿草』にパロディを書いております。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2024/06/cc404f4ec5f90091f320da52cfbe71d2.jpg)
鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用
パロディなのでおかしな箇所もありますが、だいたいこのような話です。
富士の巻狩りの御馬を出したあたりに、うろこ屋(鱗形屋)なる町人がおりました。
鎌倉の諸大名の覚えもめでたく、今日は梶原様の御用、あすは和田様にお酒を用意と、引く手あまたでございました。
中でも北条様の覚えもめでたく、大殿時政様から一字を拝領し「政兵衛」と名乗るまでになりました。
そうおとなしく御用をこなしていればまだしも、素寒貧から取り立てられた御用人の佐野源左衛門が調子にのりまして、酒宴遊興に耽る始末。
北条の三つ鱗をふりかざし、やりたい放題であります。
七つ星を手にして、三つ鱗は流れ、源左衛門は元の浪人に逆戻り。また御用をこなしたいと思えども、質は流れて受戻しもかなわないのでございます。
大田南畝は何を書いているのか?
と言いますと、ここでの「七つ星」は家紋が七曜星であった田沼意次へのあてこすりかもしれません。田沼は佐野の庶流ともされます。
要するに、鱗形屋は大名に気に入られ、何かよからぬことをしていたことが読み取れます。
武家の御用人が、遊興に耽り、よりにもよって家宝を質入してしまった――そこに鱗形屋が一枚噛んでおり、追放刑を受けたのではないかと推察できるという説もあります。
大名なり旗本なりと懇意になり、悪事を為してしまったことはあったのかもしれません。
当時の人が読めば『あぁ、あれをおちょくってんだな……』と腑にも落ちたのでしょう。
大手町の鱗形屋は、孫兵衛がいなければそれきりです。
消えぬ蔦屋
どうしてそんな危ない船に乗ったのか?
というと、どうやら鱗形屋は表向きは好調でも、裏では傾きつつあったとされます。
この『菊寿草』のころはまだ、江戸の文人たちは孫兵衛が復帰できるか気にかけていたはず。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2024/10/30212f44fcb5184c2b2c43ebcbedb57d.jpg)
画像はイメージです(地本問屋の様子/国立国会図書館蔵)
しかし、一度傾いた商売が元に戻るのは難しいもの。
流通ルートが一致する版元も困り果てます。
となると蔦屋重三郎もその影響を受けた一人のはずなのですが、なんと驚きの復活を遂げるのです。
蔦屋なんて、所詮は鱗形屋のおこぼれでやっていけるもんじゃねぇのか――当時はそう思われていたかもしれませんが、重三郎はむしろここから伸びてゆく。
皮肉にも両者を結びつけた『吉原細見』において、勝敗はハッキリと見て取れます。
見やすく価格を抑え、それでいて洒落た蔦屋版はあまりに優れていました。
同じジャンルであれば、どうしたって蔦屋が売れてゆく。そんな勝敗がそこにあったのです。
版元として多くの勝負を制することになる蔦屋重三郎。
その金星のひとつが、この『吉原細見』でした。
そもそも鱗形屋と共に沈み、茶屋に戻っていたら、大河の主役にもなっていないでしょう。
重三郎はますます伸び、反面、鱗形屋孫兵衛が静かに退場していく様は、前半の大きな見せ場となるはず。
そのとき鱗形屋孫兵衛はどう描かれるのか、片岡愛之助さんがどう演じるのか、放送の日を楽しみに待ちたいものです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
松木寛『蔦屋重三郎』(→amazon)
田中優子『遊郭と日本人』(→amazon)
他