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【田沼時代から幕末にかけて幕府の蝦夷地・ロシア対策はどうなっていた?】
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引き返せぬ天保年間以降
幕末はいつ、始まったのか?
黒船来航の以前、天保年間(1830年-1844年)からではないか――そんな見立てもできなくはありません。
当時から事態の切迫はただならぬものがあり、実際、この時期に生まれた者たちが、後の幕末史で中心になっています。
天保8年(1837年)、最後の将軍となる徳川慶喜が生まれたこの年に【モリソン号】事件が起きました。

モリソン号と音吉/wikipediaより引用
アメリカ船「モリソン号」が幕府から砲撃を受けた事件であり、アメリカ側にしてみれば「あまりに理不尽!」としか言いようがない事件です。
なんせ船には日本人の漂流民が乗せられており、親切心から帰国させるため接近してきたのです。
実際、日本国内からも「あまりに酷い」と批判が出るほどでした。
そしてその後、さらにおそるべき事態が生じます。
地球の裏側では【フランス革命】後の【ナポレオン戦争】が起き、【産業革命】に突入して、歴史のターニングポイントを迎えていた頃。
イギリスから清を訪れたマカートニー使節団は、自由貿易に対し、はかばかしい返事を得られぬまま帰国する羽目に陥りました。
「三跪九叩頭」という理不尽な儀礼が受け付けなかったなどと言われておりますが、本質はもっと別のところにあります。
イギリスからすれば、清は宝の山。一方の清からすれば、イギリスから買いたいものはなかった。
貿易をする意義がなかったのです。
【産業革命】はこの構図を塗り替えます。
工場で大量に織られる布や工業製品はアジアからしても垂涎の的となっており、それだけならまだしも彼らは危険なアヘンも売りつけるのです。
そして天保11年(1840)には、【アヘン戦争】が勃発。
日本よりもはるかに大きな清国ですらイギリスには勝てない――その現実はあまりに重く、絶対に知られてはいけないものでした。

アヘン戦争/Wikipediaより引用
幕府としては当然、この危険な情報を隠蔽しようと隠そうとしましたが、江戸ではこの戦争を題材にした軍記物まで出回ります。
こうした事情を踏まえて迎えた天保13年(1842年)、遭難船に限って給与を認める【薪水給与令】が出されました。
同時期は、水野忠邦による【天保の改革】が行われている最中。
さんざん悪評が出回った政治改革ではありますが、そうせざるを得ない理由もありました。
幕府は海防に予算を割くべく、金をかき集める必要があったのです。
開国というオプションは、江戸中期の【田沼時代】以降、常にあったものといえます。
オランダ側も何度も幕府に働きかけてきたところ、いつ、どんな形で、誰がどう行えばよいのか、それがあまりに難しい問題として解決されませんでした。
なるべく衝撃が少ない方法で開国するしかない――そのことを幕府は半分理解していたようで、半分現実逃避しておりました。
弘化元年(1844年)にも、オランダが開国を働きかけましたが、またも失敗しております。
こうしたチャンスを何度も幕府は潰してきたんですね。
内憂外患の時代へ
ロシアを経由して、日本人には「ヨーロッパ」の知識が流れ込むようになりました。
彼ら列強は、世界各地の富を収奪し、強大になっている。東洋がそれを免れているのは、文明が既に確立していたからなのか。
それにしても、なぜヨーロッパはここまで強大なのか?
天文、地理、科学知識が非常に優れている。日本も中国から学んで発展させてはきたけれど、どうにも劣るようだ。
そうして得た知識や技術、航海術を駆使して、ヨーロッパは交易を行い、世界の富を吸い尽くしている。
こんな理解へと辿り着きます。
日本と西洋諸国が初めて出会った“ファースト・インパクト”は、戦国時代末期となります。

ザビエル(左)とヴァリニャーノ/wikipediaより引用
この時点で、東西文明の差はそこまで大きくありません。
つまりはその後の政策が大きく異なった。
ヨーロッパが海外へ伸長する一方、北東アジアは【海禁政策】を取ります。
この地域の中心にあった明と清がその方針を取り、朝鮮も江戸幕府もそうしたのです。
当時、国の豊さはむしろ北東アジアのほうが上でした。全世界のGDPのうち三割を清が占めるとされたほど。
それが江戸時代中期の“セカンド・インパクト”となると、【科学革命】や【産業革命】をへて、ヨーロッパに富が流入する時代を迎えています。
そんな世界情勢の中で日本はどうすべきなのか?
幕閣から知識欲の強い者まで、日本人は頭を悩ませ続けました。
幕府が【海禁政策】を取り、交易を回避したのは、なにも家光以来の政策を遵守したいだけでもありません。
ヨーロッパが交易を通して富を吸収していることに警戒心があったのです。
江戸幕府は中期ともなると、貿易赤字に頭を悩ませていました。
金銀の採掘力が減ってゆくのに、清からは朝鮮人参をはじめとする薬物や陶磁器といった文物の輸入が途切れることなく続いている。

朝鮮人参
貿易をすればするほど赤字となり、財政を逼迫させていたのです。
朝鮮人参の栽培を国内でも行うなど、一定の対策には取り組んでいましたが、そんな場面でうっかり西洋と交易なんて始めたら、それこそ貿易赤字は大幅に悪化していたでしょう。
財力の不均衡に乗じて、相手が何をしてくるのかもわかりません。
結果、田沼意次から松平定信への政権交代に伴い、ロシアへの興味関心そのものがタブー視されるようにはなりました。
とはいえ、ひとたび目覚めた知識欲はとめどなく溢れており、知識人たちは新たな世界地図を前に、頭を悩ませることになります。
そんな開明前夜の頃だからなのか、この頃には【国学】も隆盛。
日本独自の文化があるという学問はごく当たり前のようで、危険性も孕んでいました。
むろん『源氏物語』に“もののあはれ”を見出し、研究するのは問題ありません。
しかし、こうした国粋主義は排外主義とも表裏一体。
中国に学ぶだけでは不足しているという意識の芽生えも加わってきます。
その結果、日本は漢字を取り入れたわけではなく、もっと前から独自の文字があったというトンデモ理論由来の【神代文字】が作られることすらありました。
内向きで自己陶酔的な「日本スゴイ!」理論が、幕末に吹き荒れる【尊皇攘夷】の前触れとして存在したのです。
ヨーロッパ由来の知識や科学を取り入れねばならない。
交易も避けては通れない道だろう。
しかし、国内では国学思想が猛威を奮っていて、神州日本ならばどうにかなると思い込んでいる。
どこで落とし所をつければよいのか?
オランダはしきりと開国を勧めてくるものの、それが正しいのかどうかわからない。
政治改革を求める知識人は“内憂”、そして海に現れる異国船は“外患”――幕府は泰平の世だと眠りこけていたどころか、睡眠薬を手放せない不眠症に苦しめられていたようなものでした。
“どうにかなろう” この一言が徳川を滅ぼした
2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』主人公である小栗忠順は、幕府の外交が行き詰まった時代に生まれました。
彼は様々なことを学ぶうちに、若くして「開国しなければならない」と悟りました。
突出した天才であったから、というわけではなく、多くの人々が感じる限界点だったのでしょう。
そんな小栗ですら、外国人を「夷狄」、日本を「神州」と呼ぶことはありました。
しかし、遣米使節団として派遣されるようになると、そうした言葉は消え、近代化へ邁進することとなります。
小栗忠順は「金がない」と嘆き続けました。
さらにこう語ったとされます。
「“どうにかなろう”。この一言が、徳川を滅ぼしたのだ」
思えばロシアについて知った【田沼時代】以来、幕府には対応できるだけの時間や余裕がありました。
それが“どうにかなろう”という意識のもと、先延ばしを繰り返した結果が幕末の不甲斐ない情勢を招いたと、小栗は直面し続けたのです。
小栗の苦悩は、実は『べらぼう』の舞台の時点で既に芽吹いていました。
大河ドラマで描かれる江戸時代中期以降の歴史と、「歴史総合」関連書籍に目を通し、日本という国がいかにして近代化を迎えていくのか。
考えてみるのは極めて有用なことではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
岩崎奈緒子『ロシアが変えた江戸時代』(→amazon)
後藤敦史『忘れられた黒船』(→amazon)
宮永孝『万延元年の兼米使節団』(→amazon)
家近亮子『東アジア現代史』(→amazon)
『東アジアの秩序を考える歴史・経済・言語』(→amazon)
NHKスペシャル取材班『新・幕末史』(→amazon)
他