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【田沼時代から幕末にかけて幕府の蝦夷地・ロシア対策はどうなっていた?】
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貿易ルート上の日本を確保したいレザノフ
蝦夷地では交易ができる――そうロシアが知った後、またも事態が動きます。
エカチェリーナ2世が崩御し、アレクサンドル1世の治世なると、今度はレザノフから要求が突きつけられました。

ニコライ・レザノフ/wikipediaより引用
レザノフは交易会社の経営者で、主力商品は毛皮。
当時のイギリスは、アメリカ産の毛皮を中国に売り、利益を得ていました。
そこで、ロシアや蝦夷地近辺で手に入れた毛皮を、日本を経由で中国に売ったらどうか。さらには中国で購入した商品をヨーロッパで売ったらどうか。
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絶好のチャンスをものにしたいレザノフにとって、唯一の障害が「日本を経由すること」でした。
そこでその障害を取り除くべく、自ら長崎へ来日したレザノフは、呆気なく軟禁状態に置かれてしまいます。

日本側が記録したレザノフの船と兵隊/wikipediaより引用
一応、長崎から江戸へレザノフの要求が送られても、実質的には何一つ変わらない「ゼロ回答」なのですから、困ったものでしょう。
それにしても、なぜ幕府はそこまで頑なだったのか――そこには日本人が単純化しがちな誤解が詰まっていました。
「西洋列強は日本を植民地にするつもりだ」という強迫観念であり、未だに広まっている考え方でありますね。
なんせ2018年大河ドラマ『西郷どん』では「フランスが鹿児島を自領にするつもりだった」というトンデモな描写すらあったものです。
西洋列強が日本に要求したことは、あくまで帰港や貿易です。
日本を自国の領地にするとか、住民を移住させるなどの要求ではありませんでした。
前門の獅子 後門の羆 イギリスまでも迫る悪夢
それにしても、なぜ幕府はそこまで頑なだったのか?
水と燃料を補給したい――そんな単純な要求すら拒否する姿勢については、幕閣の外にいる日本の知識人たちも同様に理不尽だと考えていました。
ゆえに実力行使に出る者も現れます。
ロシア側が蝦夷地・樺太を襲撃する事件が発生したのです。
文化3年(1806年)から文化4年(1807年)にかけて勃発したこの騒動は【文化露寇】と称され、日本側はろくに戦うことすらなく敗走しました。
その噂は徐々に広まり、深刻な事態を引き起こします。
徳川家康の開府以来、幕府は武力があるからこそ、統治に正当性があると主張できました。
それが夷狄相手に戦うことすらなく、尻尾を巻いて逃げ惑うだけでは、“武士”の名目が立ちません。
数年前には南の長崎国防を揺るがす大事件も起きています。
文化年間(1804年-1818年)、ヨーロッパ大陸は【ナポレオン戦争】による惨禍が渦巻いておりました。
日本と通商関係にあるオランダも容赦なく巻き込まれると、【フランス革命】の影響のもと共和派によってオラニエ家が放逐され、【バタヴィア共和国】とされていました。
日本側にそんなことが察知されたら、もはや交易は続けられない。
そう判断したオランダ側が隠蔽を続けていると、とんでもない事件を招いてしまいます。
それが【フェートン号事件】です。
バタヴィア共和国はフランス側であり、当時、世界最強の海軍を誇るイギリスにとっては敵。
よってイギリスでは世界に散らばるオランダ勢力の駆逐も遂行しており、その標的がついに日本の長崎にある「オランダ商館」にまで向けられたのです。
そこで文化5年(1804年)に起きたのが、イギリス海軍艦が突如長崎沖に現れる【フェートン号事件】でした。

フェートンの指揮官フリートウッド・ペリュー/wikipediaより引用
ヨーロッパ情勢をロシア経由でようやく知る
日本側にしてみれば、いきなり理由もなく襲われたようなもので、なす術なし。
なぜ、こんなことになったのか? オランダ側に経緯の説明を求めても不都合な事実を語ることはできず、曖昧な返答しかありません。
そこで幕府はロシアに事情を聞き、あまりに危険すぎる国際情勢をようやく、まざまざと知ることになります。

バスティーユ襲撃/wikipediaより引用
幕府にしてみれば、フランス革命とは、百姓一揆が公方様と御台所を斬首した事件となります。
そんな一揆の国が戦争を引き起こしているとは想定外の事態であり、日本国内では絶対に隠さなければならないと考えましたが、江戸ではすでに町人向けナポレオン伝も出回るほどのブームが起きていました。
ラクスマンは毛皮貿易のため、日本に通商を求めてきました。
時代がくだり19世紀に入ると、別の魅力的な産品が日本にまで影響を及ぼしてきます。
鯨油です。
航海技術も向上すると、良質な鯨油を求める捕鯨船は太平洋にまで航行するようになりました。

19世紀、アメリカの捕鯨船・Charles W. Morgan/wikipediaより引用
なにぶん広大な海ですから、想定外の目的地に漂着するトラブルはしばしば起きます。
例えば文政7年(1824年)には、水戸藩の大津浜、薩摩藩の宝島にもイギリス船が上陸しました。
「実に油断ならないおそるべき国がある」
水戸と薩摩がそう敏感になったとしても、まったく不思議ではありません。
要は、幕末に至る芽がこの頃から吹いていたのですね。
そこで幕府は文政8年(1825年)に【異国船打払令】を発布し、外国船を見かけたら攻撃するよう命じました。
しかし、これがさらに厄介な事態を引き起こしてしまいます。
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