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【日本の男色・衆道】
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江戸期都市の男色
江戸時代になると、人々が行き交う都市には多くの「陰間茶屋」、つまり男娼を置く店が繁栄しました。
こうした茶屋は歌舞伎小屋の近くにあることが多く、気に入った歌舞伎役者をそのまま買うという行為も行われていました。
しかし、天明年間(1781~1788)あたりからは衰退してゆきます。
度重なる改革によって取り締まられたということもあります。
それよりもっと大きな要因は、都市部において男性が余るという歪(いびつ)な男女比が、時代がくだるにつれ正常化したことが大きな要因のようです。
と、ここまで読んで来て、すでにお気づきの方もおられるかもしれません。
男色が起きやすいところとは?
・寺社
・戦場における武士
・女性の少ない都市圏
すなわち男女比に偏りがある場合に男色が盛んになっているのです。
本来は異性愛者である人物が、環境的に異性を得られない場合、代償的に同性相手に恋愛や性行動を行う場合を“機会性同性愛”といいます。
日本の男色文化の背景には、こうした機会性同性愛の要素もあると言えるのではないでしょうか?
もちろん生まれながらにして男色を好む人もいたでしょうが、江戸時代に男女比が正常化すると男色も下火になったという点は、注目すべき点でしょう。
また、江戸時代に関しては、藩によって男色を含めた性生活のルールが異なります。
男色が絆を深めるとして讃美された藩もあれば、男色に伴うトラブルを嫌い、禁止した藩もあります。
つまり「江戸時代の日本では、男色は盛んであった」とザックリまとめることはできません。
時代と地域ごとにばらつきがあるからです。
「日本は同性愛に寛容」なのか?
「日本は同性愛に寛容だった」という言葉を見かけます。
これには注意が必要でしょう。
男性同士の性交渉が「罪」として断罪されていたヨーロッパの宣教師からすれば、日本は「悪徳が蔓延して誰も咎めない国」だったかもしれません。
しかし、実はそれも時代や地域によって事情は異なり、一概には断言できないのです。
また、前述した通り「寝所にいるボディガードであったのか」、それとも「愛人」であったのか、判別できないこともあります。
藤原頼長のようにハッキリと日記に記載があったり、武田信玄のように恋文が残っているのであれば確定的ですが、「AさんとBさんは寝所に一緒にいた」程度であれば、後世に拡大解釈された可能性も大いにもあるわけです。
歴史的な事例を恣意的に持ち出し、明治以降の流れを無視して「日本は同性愛に寛容」とすることには問題があります。
また、寺社における稚児の寵愛や、小姓の場合は、身分差や年齢差の差がある関係性でもあり、現代の成人同士が合意に基づく同性愛とは別ものです。
現代の「同性愛者の権利に寛容」というのは、制度的に結婚等を含めて同性愛者の権利を認めるかどうか、という問題です。
「日本は稚児や小姓の文化もあるし、今だってBLがこんなに盛んなのだから、同性愛に寛容なんだよ」といったことは、別の問題を混同しているものです。
ですので、大河ドラマの歴史的考証に基づいた同性愛描写を「女性向け」「BL」といった捉え方をするニュース記事等については、少々短絡的ではないかと個人的には思います。
昔と今の考え方が違うのは当たり前のことであり、性愛に関してももちろんそうです。
歴史と現代は別物と考えたうえで、偏見を持たずに男色を考えることが大事ではないでしょうか。
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文・小檜山青
【TOP画像】衆道物語/国立国会図書館蔵
【参考文献】
ゲイリー・P・リュープ/松原國師/藤田真利子『男色の日本史――なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』(→amazon)
大塚ひかり『女系図でみる驚きの日本史 (新潮新書)』(→amazon)