勝った負けたの合戦譚は、歴史の中でも人気の高い話題です。
ただ、細かいところまで理解するのはなかなか難しいもので、特に戦に至るまでの人間関係や政治的対立などがややこしくなりがち。
ところが、です。
それらを一つずつ紐解いていくと、人間らしさや「それ、別の時代でも似たようなことあったよね?」といったことが見えてきて、段々と面白くなってくるのですから、やっぱり歴史は、最初に流れをシッカリ掴んでおくのが肝要なのでしょう。
今回は、日本が「武士の世」になっていくキッカケの一つ【保元の乱(1156年)】を見ていきます。
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皇室の対立に源平や藤原氏が絡む
保元の乱とは何なのか?
ものすごく乱暴にいうと「平安時代版・関が原の戦い(※ただし舞台は京都市内)」という感じです。
あまりに有名な関ヶ原の戦いを一行で説明しますと、
という一連の合戦ですね。全国規模で東西に分かれて戦いが行われておりました。
これが保元の乱になりますと、こんな感じです。
◆皇室の中で上皇と天皇が対立→他の勢力(摂関家と清和源氏・伊勢平氏)が敵味方に分かれて参戦した
中心となるのが皇室の対立。そこにいろんな武家や貴族が乗っかってきたワケです。
時代が違いすぎるためか、関が原の戦いと、あまり比較されることはありませんが、「当時の(名実ともに)権力者に、他の家が一族内で敵味方に分かれて味方した」というところは似ているかと思います。
こうなると、
「んじゃ、平治の乱はどうなの?」
と思うかもしれませんが、こちらは以下の記事をご覧いただければ幸い。
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平治の乱ってオモロイじゃん! 清盛vs義朝以外の争いに注目すると見えてくる
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というわけで、まずは皇室・源平・摂関家、それぞれの対立についてみていきましょう。
【皇室内での対立】
唐突すぎてわかりづらいと思いますので、そうなった状況から説明して参りましょう。
乱が始まる前、治天の君(天皇・上皇・法皇の中で実際に政治を行う人)だったのは鳥羽法皇でした。
その時点で、次代の崇徳上皇もおりましたが、院政は基本的により古い世代の人が行うので、権限は鳥羽法皇に集中しております。
そもそも崇徳上皇は天皇として在位中から父・鳥羽法皇に冷遇されておりまして。
現代で崇徳上皇というと
「史上最強の怨霊」
などと呼ばれることもあり、どんだけ恐ろしい人物だったの?と思われがちですが、少なくとも生前は穏やかな人物です。
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崇徳天皇の波乱万丈が痛々しい~最強の怨霊?それとも最高の歌人?
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にも関わらず、なんで父・鳥羽法皇から嫌われてしまったのか?
というと、理由は定かではないながら、俗説として
「崇徳上皇の母である待賢門院・璋子が白河法皇の寵妃だったため、鳥羽法皇は崇徳上皇のことを『叔父子』と思い込んでいた」
からだとされています。
要は、鳥羽法皇が「自分の子じゃない」と思いこんでいたという説ですね。
実子問題は、事が事だけに真偽が明らかになることはないでしょう。
ただ、そうでもないと説明がつかないような冷遇ぶりで、まことしやかに語られています。
詳細は以下の記事にお譲りして……。
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鳥羽上皇の院政時代に起きた静かなるトラブル「長男は実の子ではない?」
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崇徳上皇の対立相手となったのは後白河天皇でした。
彼は、鳥羽天皇の息子で、最終的には
崇徳上皇(兄)
vs
後白河天皇(弟)
という対立構造となります。
詳細は後述しますが、この2人が中心人物(関が原で言えば【石田三成vs徳川家康】)となりますね。
以下に、即位の流れを記しておきます。
第74代 鳥羽天皇(父)
(1107-1123年)
↓
第75代 崇徳天皇(兄)
(1123-1141年)
↓
第76代 近衛天皇(弟)
(1141-1155年)
↓
第77代 後白河天皇(弟)
(1155-1158年)
【清和源氏と伊勢平氏】
保元の乱をややこしくしているのは、むしろ皇室の兄弟対立ではありません。
実は、これより90年ほど前に起きていた
あたりに遠因があります。
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上記の合戦の結果、清和源氏が東日本の豪族から絶大な支持を得ました。
後に源頼朝らを輩出する源氏の名門一族です(正確には、清和源氏の一派の河内源氏とも呼ばれますがここでは割愛)。
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源氏といえば平氏。
その構図はここから生きていて、桓武平氏の流れをくむとされる房総平氏(千葉氏や上総氏)の中で、清和源氏の傘下に収まることを嫌い、伊勢に移ったのが伊勢平氏です。
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伊勢平氏は白河法皇の皇女の供養のために領地を寄進したり、源義親の討伐を行って地位と名声を得ました。
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当然、清和源氏と伊勢平氏はお互いのことをよく思っていません。
とはいえ、それぞれの家で一枚岩というわけでもありません。特に源氏は、お家芸と言えるぐらいに内輪揉めが多いのです。
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