壇ノ浦の戦い/Wikipediaより引用

源平

平頼盛のサバイバル~壇ノ浦後も生き残り頼朝に仕えた清盛の弟

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
平頼盛
をクリックお願いします。

 

戦地で置き去りにされ命を救われた

そんな感じであまり居心地の良い状態ではない時期が続きました。

多少扱いがマシになりますのは高倉天皇と清盛が相次いで亡くなってからです。清盛の跡を継いだ宗盛にとって、頼盛は叔父だったからです。

高倉天皇とは? 後白河や清盛に翻弄され若くして死んだ色白の美男子

続きを見る

ただし、あることないこと言って二人の仲を裂こうとする輩もおり、相変わらず落ち着けない状態が続きました。

頼盛自身は、息子の官位が平家の若い世代の中で突出しないように気を配ったり、あれこれ努力をしていたんですけどね。

その余波は源氏が平家討伐に乗り出した後も続いており、平家の主だった人物が西へ落ちて行った際、なんと頼盛は置き去りにされてしまいました。

しかし、結果的にこれが彼の命を救います。

源氏側から「一族だから一緒に行動してただけで、逆らうつもりないんでしょ? なら官位だけ返せば命まではとらないよ」(超訳)という扱いになったのです。

この辺でいよいよ覚悟が決まったのか、頼盛は密かに頼朝と連絡を取り、鎌倉へ向かいました。

源頼朝に会うときは丸腰で行き、敵意のないことを示したそうです。頼朝のほうでもそれを感じ取ってか、頼盛を父のように歓待したとか。

源頼朝53年の生涯まとめ! 出生から鎌倉幕府の設立 死因 その素顔に迫る

続きを見る

もちろん感情的な理由だけではなく、頼盛が後白河法皇や八条院と懇意にしており、朝廷への連絡役として働いてくれるだろうと思ったからでしょう。

もしかしたら、間接的にかつて命を助けてくれたからというのもあったかもしれませんね。

また、京都ではこれまでの混乱や飢饉等により、食糧不足が起きていたため、頼盛は頼朝へこれを話し、何か対策をしてくれるよう頼んでいます。

 

鎌倉と京都を行き来して武家と朝廷を

その後は頼朝の思った通り、度々鎌倉と京都を行き来して朝廷や法皇との連絡役を務めました。

頼朝からは餞別の品が送られるなど厚遇されましたが、京都では後白河法皇の側近達からあまりよく思われておらず、自ら引き下がっています。

源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

意外にも、壇ノ浦の戦いで滅びた自分の一族のことについて、頼盛がどう感じたかということははっきりわかっていません。

年齢のこともあってか、同じ年の5月に出家して政治の表舞台からも引退していますが、一門の供養のためだったかどうか。

出家から約一年後に亡くなっているので、あるいは頼盛自身が何か病気になっていた可能性もありますね。

享年55。

そんなわけで実に評価が難しい人なのですが、もう少しスマートな身の振り方をしていれば、「源平の間をうまく渡り歩いた人」として良い印象を持たれていたかもしれません。

忠盛の継室の息子という立場をもう少し上手に使えていれば……。

あわせて読みたい関連記事

平清盛が平安末期に絶大な権力を握れたのはナゼ?院政と合わせて確認だ

続きを見る

開戦、壇ノ浦の戦い! 源氏 vs 平家の最終決戦はいかにして行われたか

続きを見る

平重盛(清盛の長男)はストレス死? 権力者の二代目はつらいよ

続きを見る

大天狗と称された後白河天皇(後白河法皇)若かりし頃を振り返ってみる

続きを見る

高倉天皇とは? 後白河や清盛に翻弄され若くして死んだ色白の美男子

続きを見る

源頼朝53年の生涯まとめ! 出生から鎌倉幕府の設立 死因 その素顔に迫る

続きを見る

一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし) 源平合戦の趨勢を決め 義経はヒーローに!

続きを見る

富士川の戦いで源氏と平氏が大激突!するかと思ったら大逃亡の理由とは?

続きを見る

屋島の戦いは那須与一『扇の的』が熱い!義経のムチャ振り豪腕で切り抜け

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
平頼盛/Wikipedia

TOPページへ

 



-源平
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.