藤原道長が世を去った後、摂関家は血を繋げながらも、勢力は弱まっていきいきました。
代わって、平安末期にかけてはいくつかのカテゴリに分かれた有力者が出てきます。
まず地方に目を向けると、「開発領主」と呼ばれる地主のような有力者が台頭してきました。
彼らは元々朝廷から地方に任命された役人(郡司・郷司など)で、任地を開発したり、放棄されて荒れていた田畑を整備して、その土地を京の権力者(貴族や平家・源氏)に寄進することで自らの地位と権力を保とうとしました。
これを寄進地系荘園といいます。
そして中央では摂関家に代わって院政が力を持つようになり、やがて武士が重用されると今度は平清盛が頂点に立つのであります。

絵・小久ヒロ
さっそくその経緯を見て参りましょう。
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院政のメリット:実務と祭祀の担当を分けられる
平安末期に新しく登場する歴史の有力者。
中央での代表は【治天の君】です。
言葉の意味としては「実際に政治を執り行う天皇・上皇・法皇」のことでして、要は【院政】と深く結びついている言葉です。
摂関家を外戚に持たなかった後三条天皇。
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その次代である白河天皇は、退位した後に院政を始めました。
白河天皇は在位中から親政に積極的だったので、退位後もそれを続けようとしたのです。現代の我々からすると「じゃあなんで退位するんだ?」とツッコミたくなりますね。
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おそらく、白河天皇の脳裏には、平安中期の項でお話した藤原道長と敦明親王のようなケースを防ぐ目的があったと思われます。
つまり、道長のように絶大な権力者が出てきた場合、既に皇太子が決まっていたとしても、時勢によっては引き下がらなければならない可能性がある……ということを回避したかったのではないでしょうか。
さすがに、現職の天皇を引きずり下ろすことはそうそうできません。
道長も三条天皇をイビリ続けて退位させてはいますが、それでも即座に……とは行っていませんからね。
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となると、早めに退位して実権を握りつつ、現職の天皇の後ろ盾になる、という形が最善策ということになるわけです。
早めに退位するメリットとしては「実務と祭祀の担当を分けられる」という点もあります。
現代でこそ「祭祀? なにそれ?」「お祈りして生活が保証されるなんていいよなw」なんて言う人もいますが、当時の祭祀は何よりも大事な仕事でした。
また、祭祀には現職の天皇でなければできないもの、女性天皇の場合は行わない(行えない)ものなど、細かい前提がついているものもあります。
とはいえ天皇も人間ですし、衛生環境や医学が整っていない時代では、過密スケジュールが命取りになりかねません。
そこで、政務は上皇・法皇が行い、祭祀を天皇が行う……という形が望ましいわけですね。
※現代においては別の理由で譲位が行われましたが、今後の事情は流動的でありましょう。「古代では上記のような理由があったと思われる」ということでよろしくお願いしますm(_ _)m
清盛のジッチャンが北面武士に任じられて
そしてもう一つの有力者が、これ以降、数百年に渡って日本史を担う【武士】です。
白河法皇は自分の足元を固めるべく、後に平清盛を輩出する伊勢平氏(平家)を味方につけました。
この頃は清盛の祖父・平正盛が伊勢平氏の棟梁です。
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正盛は、自分の領地だった伊賀を白河法皇に献上したことで覚えがめでたくなり、【北面武士(ほくめんのぶし)】という役職に任じられています。
北面武士とは、その名の通り法皇の御所(院)の北側に詰めて、身辺警護をする武士のことです。
正盛以外の武士もいましたが、この役職についたことで平家の地位が上昇し始めたとみなされているため、切っても切れない単語です。
ついでに、伊勢平氏のことをもう少し詳しくお話しておきましょう。
◯◯平氏とか◆◆源氏って、たくさんあって「だから誰がどこの家なんだよ!」とこんがらがってしまいますので。
伊勢平氏は、桓武天皇から分かれた「桓武平氏」のうち、上総国に赴任した坂東平氏と呼ばれる一族からさらに枝分かれした家です。
この時点で既にややこしすぎますが、系図的には葛原親王から始まります。
桓武平氏初代・葛原親王(かずらわらしんのう)
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葛原親王の孫・平高望
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高望の長男・平国香(くにか)
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国香の長男・平貞盛
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貞盛の四男・平維衡(これひら)
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(三代略)
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清盛の父・平忠盛
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平清盛
国香の甥があの平将門なので、清盛と将門は遠い親戚ということになりますね。
将門は、関東のイメージが強いので意外かもしれませんが、維衡の代に伊勢へ移ったので「伊勢平氏」と呼んでいます。
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当時、関東では源頼朝らの祖先にあたる河内源氏(一般的にいう“源氏”)が勢力を伸ばしており、伊勢平氏はその下につくことを嫌って西へ移ったのでした。
そして、河内源氏の一員である源義家が【前九年の役】と【後三年の役】のときに関東での地位を確立したのですが……これは朝廷にとっては警戒すべきことです。
関東で独自の勢力を作ったも同然ですからね。
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また、河内源氏は元々藤原摂関家との繋がりもあったので、摂関家の勢力を削ぎたい皇室や他の貴族にとって、河内源氏の勢力拡大は望ましくないわけです。
こういった理由で、白河天皇以降、皇室や貴族は河内源氏の対抗馬として、伊勢平氏を引き立てるようになりました。
白河法皇「賀茂川の水、双六の賽、山法師」
また、院政という政治形態も安定するようになります。
創始者である白河天皇(法皇)の権力は絶大なもので、人事権を掌握して摂関家を骨抜きにしました。
この頃の摂関家に、白河法皇に対抗できるほどの政治手腕を持った人物が出なかったともいえます。
そんな白河法皇でも、思い通りにならないとぼやいたのが有名な
「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師」
です。
山法師とは、比叡山の僧侶のこと。
詳しくは以下にあります比叡山延暦寺の記事をご覧ください。
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この頃の比叡山は何か気に食わないことがあると「神のご意思が目に入らぬか!」と叫びながら神輿を物理的に担いで突撃していたので、流石の白河法皇も手を焼いていたのです。最澄が泣くぞ。
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