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山県有朋/国立国会図書館蔵

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新 明治・大正・昭和時代

山県有朋85年の生涯をスッキリ解説!西郷隆盛を慕い滅ぼした元勲の苦悩

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【編集部より】

・長州藩
・陸軍
・元勲

さぁ、このキーワードから導き出される人物は?
なんて問いかけをしたら、おそらくや日本史受験者のほぼ全員がお答えできると思います。

答えは山県有朋山縣有朋)。

高校生の頃は、教科書に戦場カメラマン渡部陽一さんのいたずら書きをした経験がおありの方もおられるかもしれません。

とまぁ、そんな冗談が全く通用しそうもないのが山県有朋の特徴でもありますよね。

同じ長州の伊藤博文とはなんだか雰囲気が違う。
似たような出自・経歴をたどってきたのに、山県のほうにはドコか翳がある。

それはナゼなんだろう――と考えると、山県の人生そのものが苦渋の連続だったからかもしれません。

つぶらな瞳の奥にはどんな想いが隠されているのか。

本稿では、山県有朋その生涯を見ていきたいと思います(以降、本文へ)。

 

どこか寂しい家庭環境

山県は天保9年(1838年)、長州萩城下川島村(現在の山口県萩市川島)に生まれました。

父は有稔、母は松子。
幼名は辰之助(たつのすけ)、小助(こすけ)、小輔(こすけ)

父は手小役(てこやく)と呼ばれる雑用係の下級役人でした。

山県は少年期から槍術に励みました。
勉学は、父・有稔が教えます。この有稔は和歌国学に傾倒しており、我が子にも影響を与えるのです。山県は和歌をよく詠みました。

15歳で元服した山県は手小役として勤め始めると、ほどなくして日本は激動の時代を迎えます。

嘉永6年(1853年)、黒船の来航です。

ペリー来航/wikipediaより引用

山県の家庭環境は、寂しいものでした。

わずか5歳で母を失い、かわりに彼を育てあげたのは祖母。
その祖母も元治2年(1865年)、仕立てたばかりの縮緬(ちりめん・絹織物)に身を包み、投身自殺を遂げてしまいます。

山県が高杉晋作と藩を立て直すべく奔走していた頃です。
孫の足手まといになるまいと死を選んだのだ――と、後に山県は回想しています。

先だって4年前には実父も亡くなっており、彼の血を分けた親族は5歳上の姉・寿子のみ。
慶応3年(1867年)に結婚した妻・友子も42歳という若さで明治26年(1893年)に先立っております。

夫妻の間に生まれた三男四女も、二女・松子をのぞけば、8歳までに夭折してしまいました。

黒船来航以来走り続けた山県に、つきまとう暗い影。
山県は、人間を深く信じることができないのではないかという疑念に苛まされます。

彼自身、病弱な一面があり、青年期に迎えていた幕末動乱の最中にも、しばしば病気療養をしていたほど。

長州藩の人々は、理屈っぽく智を求める傾向があり、薩摩藩の人々は異なるという印象が抱かれがちです。

山県の場合、そんな長州人としての気質だけではないどこか寂しい部分も、生涯つきまとうのでした。

 

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松蔭先生の言葉より……その名は「狂介」

山県のような足軽・仲間組の子弟は、藩校「明倫館」で学ぶこととは無縁です。

ではどうすれば、この動乱で身を立てられるのか?
江戸や京都に出て、時代の空気に触れるしかなかろう――そんな熱気が、長州藩で立ちこめ始めます。

山県にチャンスが訪れました。

安政5年(1858年)、長州藩が京都に派遣する6人の藩士の一人に選抜されたのです。
親友である杉山松介の推挙によるもの。
なお、この杉山は後の「池田屋事件(1864年)」で死去しております。親友とも縁が薄い、そんな山県でした。

山県は京都で、久坂玄瑞や梅田雲浜と交流を結び、影響を受けます。

帰国後の10月、久坂の推薦で松下村塾入りま。幕末に活躍した塾生の中では、入塾も遅いほうでした。
翌年の安政6年(1859年)には吉田松陰が、老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画に問われ、斬首されてしまったのです(「安政の大獄」)。

吉田松陰/Wikipediaより引用

ほどなくして万延元年(1860年)、今度は井伊直弼が暗殺されました(「桜田門外の変」)。
青年となっていた山県の心にも強く陰を落としたことでしょう。

文久2年(1862年)頃、「狂介」と改名。
「狂」というとちょっと物騒に思えるほどですが、吉田松陰の教えにこのような言葉があります。

「諸君、狂いたまえ」

狂うほど何かにのめり込み突き進め――そういう意味です。

文久3年(1863年)、山県は、高杉晋作が組織した奇兵隊の軍監を務めることとなります。
小手役からの大出世。年齢が近く思想も一致する高杉晋作と、意気投合していたのですね。

しかし、時代は激動の最中。

長州藩は、度重なる危難にぶつかります。
文久4年から元治元年(1864年)に変わろうとする数年は、まさに危機一髪の正念場でした。

詳細を省き、長州が追い込まれていった事件を時系列で並べて参りましょう。

【京都】
八月十八日の政変(1863年)※京都から追い出される
池田屋事件(1864年)※拠点を新選組に襲われる
禁門の変(1864年)※会津と薩摩に撃退される

【長州】
下関戦争(1863年と1864年)※外国相手にフルボッコ
長州征伐(1864年と1866年)※幕府に軍を派遣され

長州征伐のうち1866年次については、直前に薩長同盟が秘密裏に結ばれており、窮地から脱する起点になったとも言えますが、度重なる事件により久坂玄瑞や入江九一らの松下村塾門下生たちが数多く命を落としました。

後に首相となる伊藤博文や井上馨らは海外留学を機に攘夷を控えるように改めます。

しかし山県は、それを認めようとはしませんでした。

実際、山県らはこの頃、正念場を迎えておりました。

長州内も決して一枚岩とは言えず、藩内は
「正義派」
vs
「俗論派」
に分裂、激しい権力闘争の末に、山県らが藩の実権を握ったのです。

山県の俗論派、および俗論派との融和を目指した赤禰武人(あかね たけと)への憎悪は凄まじいものがありました。
赤禰の実績を抹消しようとしたほど。

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この後、第二次長州征伐が行われた際、山県は防衛を担当した小倉口から小倉藩領に攻め入ります。

そして山県はある思いを抱くようになりました。
「薩長同盟」によってその思いはますます強くなります。

 

武力倒幕を目指せ

山県の思いとは、武力による倒幕でした。

薩長同盟は、倒幕を意図したものではありません。
薩摩藩では武力倒幕に慎重な意見もありましたし、薩摩藩と盟約関係にあった土佐藩も、武力倒幕には慎重な姿勢を見せておりました。

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京都でも、穏健な政権交代を目指す勢力と、武力倒幕を目指す勢力が料率。
長州藩と対立していた会津藩でも、山本覚馬らが穏健な政権交代を探っておりました。

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慶応3年(1867年)夏。
山県は藩命で京都に向かい、西郷隆盛島津久光と顔を合わせます。

どうやらこのあたりで、薩摩藩は長州藩にあわせ、武力倒幕に舵を切るようになったのではないか?と思われる節があります。

それが赤松小三郎の暗殺事件です。

赤松は山本覚馬のような会津藩関係者とすら接触していたため、情報漏洩をおそれて殺害されたとされております。
しかし、どうにもこの背後には長州藩の陰が見え隠れしているのです。

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同時期、坂本龍馬も凶刃に斃れました。
こちらの背後には会津藩がおります。

穏健な政権交代への道は徐々に断たれ、ついに戊辰戦争へ。

山県は、北越戦争に参戦。
この戦場には、ガトリング砲で武装した越後長岡藩の河井継之助がおり、大激戦となります。西郷隆盛の弟・西郷吉二郎が戦死を遂げたほどです。

山県も、裸で瓢箪一つぶら下げてたまらず逃走をしたほどで、後にこのことを指摘されると、
「いやあ……」
と彼も応じるほかなかったのだとか。

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さらに痛恨事がありました。
奇兵隊の時山直八(ときやま なおはち)の救援に向かうものの間に合わず、戦死してしまったのです。
親友であった時山の死は、山県の心に深い傷を残しました。

こうした戦いの中、薩摩藩との連携にも齟齬が生じてきます。
勝者にとっても、苦い戦いだったのでした。

 

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「狂介」改め「有朋」へ

明治3年(1870年)。
幕末という動乱が終わり、山県は西郷従道とともに欧州へ派遣されました。

もはや攘夷などと言ってられるワケもありません。
決別する必要があります。

ただ、どうしても山県は、松陰由来の思想から抜けきれません。

彼の目から見たヨーロッパは、むしろイギリスすら王権が弱まりつつある、嘆かわしいもの。
フランス革命以来の民主主義は、彼にとっては厭わしいものに思えたのです。

明治維新は、民衆の力による「革命」とみなされ、「フランス革命」になぞらえる意見もあります。
2018年大河ドラマ『西郷どん』では、まさにそういう見方をしておりました。

しかし、肝心の薩摩や長州がそういうものを目指していたかというと、極めて疑わしいものです。

英語での「明治維新」は、”Meiji Restoration”という呼び方が定着しています。
” Meiji Revolution” という呼び方もあるにはありますが、前者の方が優勢です。

海外からすれば【明治は革命ではない】ということでしょう。

左から山県有朋、木戸孝允、伊藤博文の像

そしてこのころ山県も改名を果たします。

「狂介」から「有朋」へ。
朋が有るという意味です。同時に「含雪(がんせつ)」という号も使うようになりました。

松陰由来の狂ったように突っ走る激情から、朋友と共に歩んでゆく――そんな心境の変化があったのでしょう。
雪という冷たいものを含んでゆくという号からも、そんな心を感じます。

これも、幕末という動乱の中、育ての親である祖母だけではなく、友人たちを失っていった山県の境遇を思いますと、なかなか心に迫るものがあります。

山県の言動からは、どこか暗い面が感じられます。

赤禰武人の事績を抹消しようとしたこと。
山川浩が陸軍少将に出世する際に「山川は会津じゃろが」と妨害しようとしたこと。

数々の言動の裏には、俗論派との争いで祖母を失ったという思い。会津藩の指揮下にあった新選組による「池田屋事件」で親友を失ったという思い。そうした親しい者を奪った側への怒りがあったのかもしれません。

改名や号にせよ、こうした言動にせよ、山県の味わってきた苦い思いが関係しているのでしょう。

 

陸軍の建設と廃藩置県に尽力

そんな山県は、明治政府の陸軍を作り上げた者として名を上げます。

徴兵制度等を学んで帰国後、兵部少輔として軍制改革を実行。
明治3年(1860年)末、島津久光を東京に招くため、山県とともに岩倉具視と薩摩へ向かいました。

ここで、「御親兵」の設置を西郷に提案するのです。
病気であるという久光に代わり、西郷を東京にまで引き出したのも山県でした。

『西郷どん』での西郷隆盛は、息子の説得で薩摩から東京へやって来て、西郷自身が「御親兵」を考え出したような描き方ですが、違います。

山県です。
彼を侮辱したとも言える表現にも思えてしまいます。

明治4年(1861年)、廃藩置県を実施。山県は兵部大輔となります。
このときはまだ兵部卿は空席であったため、実質的に33歳の山県がトップでした。

山県は、廃藩置県に続き、政府直轄の陸軍創設という改革において大きな役割を果たします。

明治5年(1862年)には、兵部省の陸海分割により、陸軍大輔に転じました。
欧州視察で学んだ徴兵制を推進、翌年実現に導くことになったのです。

 

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陸軍省瓦解の危機

ただし、この歳には痛恨事が起こっております。

明治5年(1872年)、長州出身で軍需品に携わっていた商人・山城屋和助が、生糸相場に手を出し失敗しました。
しかも、このあと輸出を増やすための視察という名目でフランスに渡り、一流女優と豪遊までしていたのです。

ここまで派手に遊び回る和助が、話題にならないはずもありません。
しかも、和助には陸軍省公金が流れていたことが判明します。

事件の背後にいると目された人物こそ山県でした。
和助はかつて奇兵隊士として、山県の配下にあったのです。

薩摩閥の政治家らは、山県に厳しい追及の目を向けました。
徴兵制度への反発、長州閥が近衛兵を統制しようとしているという反発も、背後にあったゆえのことです。

かくして山県は、陸軍大輔・陸軍中将・近衛都督を辞任に追い込ます。
代わって近衛都督兼参議には、西郷隆盛が就任しました。

なお、山城屋和助は山県から借金返済を迫られるものの、返すことができず、割腹自殺を遂げています。

山城屋和助/wikipediaより引用

こうして事件は闇の中に葬られた感がありますが、世間の目は誤魔化せません。
ヘタをすれば「陸軍省が瓦解するのではないか?」とすら思われた事件でした。

なお明治初期には長州閥の井上馨も「尾去沢銅山事件」を起こし、肥前藩の江藤新平から厳しい追及を受けております。西郷どんでも大隈重信らと共に詰問する様子が描かれました。

 

征韓論、続発する士族の乱

山県という長州閥の政治家が辞任し、薩摩閥の西郷が近衛都督兼参議に――長州側としては納得できないものでした。
薩長の均衡が崩れ、薩摩に重きが置かれたような印象を、木戸孝允らは抱いたのです。

こうしたパワーバランスの均衡を保つ意味もあったのか。
山県の政界復帰は早いものでした。

明治6年(1873年)、初代陸軍卿に就任。
このころから、明治政府は領土問題への対応を迫られることとなります。
陸軍も、国内秩序維持から、外国に備える軍への改革が迫られました。

そして、明治政府は大きな問題に直面します。

「征韓論」です。

西郷隆盛を朝鮮に使節として派遣するかどうか?

山県は西郷とも親しかったにも関わらず、征韓論には積極的に関わろうとはしませんでした。このことで木戸との間も一時期遠ざかることになります。

実のところ、それどころではなかったのかもしれません。

当時の陸軍では、征韓論の影響で薩摩系の辞任が相次ぎ、しかも山県と少将・山田顕義の対立が激化。
木戸孝允すらこの対立を解消できず、山県ではなく西郷従道の方が陸軍を束ねる器なのでは?と一時期思ったほどです。それほど大変な状況でした。

山田顕義/wikipediaより引用

それでも山県は参議と兼任。
明治7年(1874年)、明治政府の台湾出兵では、対清戦争の回避を主張しております。

台湾出兵は、宮古島の島民54人が殺害されたことをキッカケに明治政府が初めて国外へ軍を派遣した事件であり、目的の一つに「ガス抜き」があったとも見られます。

佐賀の乱(1874年)」に続き、止まらない不平士族の反乱。
明治9年(1876年)には「神風連の乱」が起き、その後「秋月の乱」、「萩の乱」へと続きます。

特に「萩の乱」は、同志であった前原一誠(まえばら いっせい)を攻めねばならない――山県にとって苦渋の決断は、その後も続きました。

明治10年(1877年)の「西南戦争」です。




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