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【山県有朋】
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陸軍省瓦解の危機
ただし、この歳には痛恨事が起こっております。
明治5年(1872年)、長州出身で軍需品に携わっていた商人・山城屋和助が、生糸相場に手を出し失敗しました。
しかも、このあと輸出を増やすための視察という名目でフランスに渡り、一流女優と豪遊までしていたのです。
ここまで派手に遊び回る和助が、話題にならないはずもありません。和助には陸軍省公金が流れていたことが判明します。
事件の背後にいると目された人物こそ山県でした。
和助はかつて奇兵隊士として、山県の配下にあったのです。
薩摩閥の政治家らは、山県に厳しい追及の目を向けました。
徴兵制度への反発、長州閥が近衛兵を統制しようとしているという反発も、背後にあったゆえのことです。
かくして山県は、陸軍大輔・陸軍中将・近衛都督の辞任に追い込まれます。
代わって近衛都督兼参議には、西郷隆盛が就任しました。
なお、山城屋和助は山県から借金返済を迫られるものの、返すことができず、割腹自殺を遂げています。
こうして事件は闇の中に葬られた感がありますが、世間の目は誤魔化せません。
ヘタをすれば「陸軍省が瓦解するのではないか?」とすら思われた事件でした。
なお明治初期には長州閥の井上馨も【尾去沢銅山事件】を起こし、肥前藩の江藤新平から厳しい追及を受けております。
西郷どんでも大隈重信らと共に詰問する様子が描かれました。
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征韓論、続発する士族の乱
山県という長州閥の政治家が辞任し、薩摩閥の西郷が近衛都督兼参議に――長州側としては納得できないものでした。
薩長の均衡が崩れ、薩摩に重きが置かれたような印象を、木戸孝允らは抱いたのです。
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こうしたパワーバランスの均衡を保つ意味もあったのか。
山県の政界復帰は早いものでした。
明治6年(1873年)、初代陸軍卿に就任。
このころから、明治政府は領土問題への対応を迫られることとなります。
陸軍も、国内秩序維持から、外国に備える軍への改革が迫られました。
そして、明治政府は大きな問題に直面します。
【征韓論】です。
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西郷隆盛を朝鮮に使節として派遣するかどうか?
山県は西郷とも親しかったにも関わらず、征韓論には積極的に関わろうとはしませんでした。このことで木戸との間も一時期遠ざかることになります。
実のところ、それどころではなかったのかもしれません。
当時の陸軍では、征韓論の影響で薩摩系の辞任が相次ぎ、しかも山県と少将・山田顕義の対立が激化。
木戸孝允すらこの対立を解消できず、山県ではなく西郷従道の方が陸軍を束ねる器なのでは?と一時期思ったほどです。それほど大変な状況でした。
それでも山県は参議と兼任。
明治7年(1874年)、明治政府の台湾出兵では、対清戦争の回避を主張しております。
台湾出兵は、宮古島の島民54人が殺害されたことをキッカケに明治政府が初めて国外へ軍を派遣した事件であり、目的の一つに「ガス抜き」があったとも見られます。
【佐賀の乱(1874年)】に続き、止まらない不平士族の反乱。
明治9年(1876年)には【神風連の乱】が起き、その後【秋月の乱】【萩の乱】へと続きます。
特に萩の乱では、同志であった前原一誠(まえばら いっせい)を攻めねばならない――山県にとって苦渋の決断は、その後も続きました。
明治10年(1877年)の【西南戦争】です。
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あまりに苦い「西南戦争」
西南戦争――。
それは前原一誠を倒したばかりの山県にとって、あまりに非情な運命でした。
かつては志を同じくしていた西郷隆盛を討たねばならない。なぜそんな大事になってしまったのか。
西郷側にせよ、政府側にせよ。
ここまで大規模な戦乱になるとは、予想していなかった部分があります。その責任を桐野利秋に結びつけることもありますが、これも後世のこじつけと思われます。
西郷らが決起する理由となった川路利良の密偵による西郷暗殺計画も、現在ではあったかどうか疑念も提示されています。
それに先んじて、西郷の私学校党が火薬庫を襲撃するという事件を起こしているのです。
何らかの不審行為、激怒させるようなことはあったのかもしれません。
しかし今日に至るまでハッキリしない部分も多い。
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いずれにせよ、鹿児島という火薬庫が爆(は)ぜてしまい、戦争になってしまったに変わりはありません。
西南戦争に関する作戦は閣議で決めることとなり、山県も参加。
参軍として先頭に立つこととなりました。
作戦の大綱はこうです。
・軍の指揮本拠地を大阪に置く
・士族兵の採用に極力反対、反乱士族の挙動を見張る
・陸海軍を素早く動かす
激闘となった【田原坂の戦い】でも山県は指揮を執りました。
このとき奮戦したのが、警視庁から選抜された【抜刀隊】。
敵軍に大打撃を与えながら、犠牲者も多数出しました。
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この挙兵はあなたの意志ではないだろう
戦いの中、山県は連携にも苦労します。
特に戊辰戦争中に折り合いの悪かった黒田清隆に対しては、勝手な行動に怒りを募らせた模様。
西郷軍の強さに対しては、政府軍全体で怒りを募らせておりました。
戦場では、無残な遺体損壊の続発といった証言も残されています。
身内同士の、ムゴい戦いでした。
援軍がなければ西郷はもはやジリ貧。
苦戦を経て城山にまで西郷を追い詰めると、山県は使者に書状を託しました。
この挙兵はあなたの意志ではないだろう。
不平士族反乱は失敗続きだ。老練で名識を持つあなたならば、義名も立たず好機を逸していることはわかっていたはずだ。
あなたが育成していた壮士は、才気を欠いている。あなたの名望を以てしても、彼らを制することはできなかったであろう。
しかし、あなたは壮士を見捨てることはできなかったのだ。一人だけ生き残ることはできず、持ち上げられてしまったのだろう。
両軍の死者は多い。これ以上、朋友同士で殺し合っても虚しいことではないか。
そちらの将兵は犠牲が多く、もはや逆転は望めないだろう。
この戦いがあなたの意志でないことはわかっている。あなたの決断で、両軍の犠牲者をこれ以上増やさないようにできるはずだ。
私たちは旧知の仲だ。私の気持ちをわかって欲しい。あなたにこのことを強く願っている。
山県は、西郷に敬意を抱いていました。こんな形で敵対し、死なせてしまうのはあまりに惜しい。
しかし、願いは届きません。
首のない肥満した死体が発見されたという報告が、山県の元に届きます。
土にまみれた首も持ち込まれました。
水で洗うと、それは西郷のものでした。
なぜ、あれほどの英雄が、このような無念の最期を遂げたのか。
そう思うと、山県は涙を止めることができません。しかも戦争の最中、木戸孝允も病死しました。
山県にとって敬愛していた二人が、ほぼ時を同じくして世を去るのです。
山県は終結後、莫大な年金を受け取るようになりました。
それもあってか、大名の下屋敷を買い取り【椿山荘】と名付けて改築。傷心を癒したかったのかもしれません。
山県の造園趣味は、広く知られることとなりました。
その一方で、伊藤博文のような明るくパーッした芸者遊びは得意でなかったとか。
大酒は呑むけれども、色気はないという評もあったほど。
京都祇園に堀貞子、東京には吉田貞子という内縁の妻がおりましたが、伊藤らと比較すると地味なものです。
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