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【山県有朋】
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武力倒幕を目指せ
山県の思いとは、武力による倒幕でした。
薩長同盟は、倒幕を意図したものではありません。
薩摩藩では武力倒幕に慎重な意見もありましたし、薩摩藩と盟約関係にあった土佐藩も、武力倒幕には慎重な姿勢を見せておりました。
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京都でも、穏健な政権交代を目指す勢力と、武力倒幕を目指す勢力が両立。
長州藩と対立していた会津藩でも、山本覚馬らが穏健な政権交代を探っておりました。
慶応3年(1867年)夏。
山県は藩命で京都に向かい、西郷隆盛や島津久光と顔を合わせます。
どうやらこのあたりで、薩摩藩は長州藩にあわせ、武力倒幕に舵を切るようになったのではないか?と思われる節があります。
それが赤松小三郎の暗殺事件です。
赤松は山本覚馬のような会津藩関係者とすら接触していたため、情報漏洩をおそれて殺害されたとされております。
しかし、どうにもこの背後には長州藩の陰が見え隠れしているのです。
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同時期、坂本龍馬も凶刃に斃れました。
こちらの暗殺の背後には会津藩がおります。
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穏健な政権交代への道は徐々に断たれ、ついに戊辰戦争へ。
山県は、北越戦争に参戦。
この戦場には、ガトリング砲で武装した越後長岡藩の河井継之助がおり、大激戦となります。西郷隆盛の弟・西郷吉二郎が戦死を遂げたほどです。
山県も、裸で瓢箪一つぶら下げてたまらず逃走をしたほどで、後にこのことを指摘されると「いやあ……」と彼も応じるほかなかったのだとか。
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さらに痛恨事がありました。
奇兵隊の時山直八(ときやま なおはち)の救援に向かうものの間に合わず、戦死してしまったのです。
親友であった時山の死は、山県の心に深い傷を残しました。
こうした戦いの中、薩摩藩との連携にも齟齬が生じてきます。
勝者にとっても、苦い戦いだったのでした。
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「狂介」改め「有朋」へ
明治3年(1870年)。
幕末という動乱が終わり、山県は西郷従道とともに欧州へ派遣されました。
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もはや攘夷などと言ってられるワケもありません。決別する必要があります。
ただ、どうしても山県は、松陰由来の思想から抜けきれません。
彼の目から見たヨーロッパは、むしろイギリスすら王権が弱まりつつある、嘆かわしいもの。フランス革命以来の民主主義は、彼にとっては厭わしいものに思えたのです。
明治維新は、民衆の力による「革命」とみなされ、「フランス革命」になぞらえる意見もあります。
2018年大河ドラマ『西郷どん』では、まさにそういう見方をしておりました。
しかし、肝心の薩摩や長州がそういうものを目指していたかというと、極めて疑わしいものです。
英語での「明治維新」は、”Meiji Restoration”という呼び方が定着しています。
” Meiji Revolution” という呼び方もあるにはありますが、前者の方が優勢です。
海外からすれば【明治は革命ではない】ということでしょう。
そしてこのころ山県も改名を果たします。
「狂介」から「有朋」へ。
朋が有るという意味です。同時に「含雪(がんせつ)」という号も使うようになりました。
松陰由来の狂ったように突っ走る激情から、朋友と共に歩んでゆく――そんな心境の変化があったのでしょう。
雪という冷たいものを含んでゆくという号からも、そんな心を感じます。
これも、幕末という動乱の中、育ての親である祖母だけではなく、友人たちを失っていった山県の境遇を思いますと、なかなか心に迫るものがあります。
山県の言動からは、どこか暗い面が感じられます。
赤禰武人の事績を抹消しようとしたこと。
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数々の言動の裏には、俗論派との争いで祖母を失ったという思い。会津藩の指揮下にあった新選組による池田屋事件で親友を失ったという思い。
そうした親しい者を奪った側への怒りがあったのかもしれません。
改名や号にせよ、こうした言動にせよ、山県の味わってきた苦い思いが関係しているのでしょう。
陸軍の建設と廃藩置県に尽力
そんな山県は、明治政府の陸軍を作り上げた者として名を上げます。
徴兵制度等を学んで帰国後、兵部少輔として軍制改革を実行。
明治3年(1860年)末、島津久光を東京に招くため、山県とともに岩倉具視と薩摩へ向かいました。
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ここで「御親兵」の設置を西郷に提案するのです。
病気であるという久光に代わり、西郷を東京にまで引き出したのも山県でした。
『西郷どん』での西郷隆盛は、息子の説得で薩摩から東京へやって来て、西郷自身が「御親兵」を考え出したような描き方ですが、違います。
山県です。
彼を侮辱したとも言える表現にも思えてしまいます。
明治4年(1861年)、廃藩置県を実施。山県は兵部大輔となります。
このときはまだ兵部卿は空席であったため、実質的に33歳の山県がトップでした。
山県は、廃藩置県に続き、政府直轄の陸軍創設という改革において大きな役割を果たします。
明治5年(1862年)には、兵部省の陸海分割により、陸軍大輔に転じました。
欧州視察で学んだ徴兵制を推進、翌年実現に導くことになったのです。
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