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【山県有朋】
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陸軍から内閣へ
苦い西南戦争の後も、山県は陸軍で歩み続けます。
明治11年(1878年)、陸軍に参謀本部が独立して設置されると、近衛都督兼参謀本部長に転じ、明治12年(1879年)参謀本部長に専任されます。
明治15年(1882年)制定の「軍人勅諭」の制定にも参与しました。
朝鮮半島では、明治15年(1882年)の【壬午事変】、明治15年(1884年)の【甲申事変】にも対応。
これを遡る【明治十四年の政変】では、黒田清隆の【開拓使官有物払下げ事件】を厳しく批判しながらも、穏健に乗り切ります。
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このあと国会開設の詔勅が発令されたことが、山県の転機となりました。
立憲制度調査のため、伊藤博文が欧州に派遣されたのです。長州閥の一角として、山県は参事院議長の職に就きました。
軍職以外の行政で高い地位に就くのは初めてのこと。ここから先、山県は軍以外でも活躍を見せることになります。
明治16年(1873年)に内務卿へ就任。
明治18年(1875年)には、内閣制度のもとで内務大臣となりました。
そしてこのころ成立した華族制度では伯爵に。自由民権運動に対しては、殊のほか厳しい態度で臨みます。
イギリス王室の権威低下を危うんでいた山県にとって、こうした運動は国家の危機をもたらすものと思えたのです。
知識がない下層民を惑わせ、騙して暴力を誘発させているものとみなしました。
用心深い性格のせいか。
山県は反対意見の取り締まりにも執念を見せ、憲兵を設置。
こうした民主化の芽を摘もうとした一面が、やや辛辣な後世の評価につながっているのかもしれません。
このころ山県は陸軍の刷新の必要性を感じていました。
フランス式からドイツ式へ変革を目指し、明治18年(1885年)にメッケルが来日。
ただし、青年期に達した明治天皇は意見が聞き入れられないと思ったのでしょうか、山県らに反発することもあったようです。
三浦梧楼らが山県に反発し、陸軍から去ってゆくこともありました。
政治家としての成熟期
明示も約20年を迎え、時代は立憲制度へ歩んでいきます。
山県が立憲制度のために必要だと考えたのは
・市制
・町村制
・郡制
・府県制
からなる地方制度でした。
ドイツを手本として実施しようとし、注力します。
明治21年(1888年)から明治22年(1889年)にかけて二度目となる渡欧を果たし、視察にあたります。
しかしこのときも山県は、議会制度や選挙に不信感を抱きます。
幕末から明治にかけて、欧州由来のこうした制度に感銘を受けた人物は多くいます。
しかし山県は、その慎重すぎる性格か、あるいは尊皇思想に浸かりきっていたせいか、どうしても信じることが出来なかったようです。
帰国直後、山県に驚くべき機会が巡ってきました。
条約改正問題を巡り、黒田清隆内閣が総辞職したのです。
そんな急な状況で山県が帰国を果たしたわけですから、渡りに船とはまさにこのこと。明治22年(1889年)12月、山県は恐れ多くも総理大臣に任ぜられました。
かくして第一次山県内閣が組織されました。長州閥の期待を受けた内閣となったのです。
実はこのとき、山県は伊藤より格下と周囲から見られておりました。自身も一度は断ろうとしています。
しかし、押し切られる形での組閣となり、スグに厳しい政治状況に直面することとなります。
山県内閣のもと、明治23年(1890年)に第一回衆議院総選挙実施され、第一回帝国議会が開会されました。
山県は、このとき記念すべき開会の冒頭施政方針演説を行います。
強力な陸海軍により、国家の独立を保つとともに、国の勢いを伸ばすべきだ――。
予算案を巡り激しい攻防があったものの、アジア初の議会は無事終了。
この内閣においては「教育勅語」の発布にも関与しております。ゆきすぎた西洋思考とのバランスを取るものでもあり、東洋の儒教的な道徳観が反映されています。
「教育勅語」にも良い面があるとして取り上げられる、【親孝行や兄弟仲良くしよう】という教えは、だいたいが儒教の教えと同じなのです。
そうした東洋的な美学と天皇への忠誠心を結びつけたことこそが本質なのです。そこはふまえておきましょう。
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またこの年には、二人目となる陸軍大将にも昇進を果たしております。
そして重責に耐え抜き、明治24年(1891年)、辞職。
このころ伊藤博文は対立勢力牽制のために政党結成を目指しますが、山県は乗らないどころか、阻止に回っています。
彼は不思議なもので、長州閥でありながら、木戸孝允、伊藤博文、井上馨らと必ずしも意見が合致するわけではなかったようです。
現実問題として政党政治や議会、選挙といった近代民主制政治に懐疑的な部分もあったのでしょう。
明治25年(1892年)の第二次伊藤内閣には、再三固辞したにも関わらず、法相として就任。
そして明治26年(1893年)、押しも押されもせぬ枢密院議長となりました。
軍人として、政治家として
この間も山県は、軍人としての矜持を持ち、軍備拡張を説き続けました。
彼は生涯に渡って軍備の拡張を主張しているのですが、慎重な性格ゆえのものでしょう。
拡張よりも国防――徳富蘇峰は、彼を「穏健な帝国主義者」と評しております。
明治27年(1894年)、日清戦争が勃発。
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山県は自ら第一軍司令官として朝鮮半島を北上、安東県に到着すると、病のために召還させられてしまいます。
50歳を超えたころから、持病のリューマチ、歯痛、胸部の痛み、痔、胃痛等に苦しめられていたのです。
現地の厳しい気候は、こうした病身には辛いものでした。
帰国後は監軍となり、翌明治28年(1895年)、陸相に。日清戦争の功績により、爵位は侯爵まで進んでいます。
日清戦争の勝利は
・大量の賠償金
・台湾
という領土をもたらしました。
日本中が熱気に包まれます。
山県は朝鮮半島への影響力を増やすこと、軍備拡張を主張しました。
明治29年(1896年)、ニコライ2世の戴冠式に出席した山県は、ロシアと交渉に臨み、【山県・ロバノフ協定】を締結しています。
このロシア訪問でも体調を崩してしまい、苦労をしております。
山県は明治31年(1898年)、元帥となり、その後、第二次内閣を組閣しました。
勢力を伸ばしていた憲政党とは協力し、地租増徴、京釜鉄道敷設、選挙法改正などを実現。
明治33年(1891年)には辞職します。
この年「義和団の乱」が勃発。
にわかに日本とロシア間に緊張感が漂い始めます。
日英同盟の締結により、対立はさらに深刻化してゆくのでした。
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元老として君臨し続ける
明治34年(1892年)の伊藤内閣が終わったあとは、元老として一線から退いております。
心境は複雑でした。
彼の嫌う政党の台頭。
明治天皇がみせる伊藤への篤い信任。
どれも彼からすれば複雑なものでした。
後継者の桂太郎に任せ、その後援に回った山県。伊藤共々一線を引いたかのように思えましたが、性格的にそうはいきません。
世間も、これほどの人物を手放したがらないものです。
明治37年(1904年)から38年(1905年)にかけての日露戦争で、山県は参謀総長として総指揮を取り、時には強気に責め抜く不退転の決意を見せました。
戦後は、何かと困難が多かった講和の実現にも尽力したのです。
爵位はさらに伸びて、明治40年(1907年)公爵となりました。
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影響力は一線を退いてからも健在。
明治38年(1905年)から、死まで枢密院議長を勤めあげております。
元老の中でもトップとして君臨しするのです。
その間、盟友であった伊藤博文が暗殺され、明治天皇も崩御。
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体調不良に悩まされた虚弱体質の山県ですが、実際は、かなりの長寿を保つこととなります。
彼は己の信頼した部下を「山県閥」として支え続けました。
が、晩年にはこうした行動が藩閥政治の象徴として、攻撃対象となることもありました。
激動の近代史では、まだまだ事件は終わりません。
シーメンス事件、第一次世界大戦、宮中某重大事件、原敬暗殺未遂……という流れを経て、山県の晩年には様々な困難も起こりました。
皇太子(のちの昭和天皇)の婚約をめぐる「宮中某重大事件」においては完全敗北し、ついに謹慎の日々を送ることに。
そして大正11年(1922年)没、享年85。
最期は眠るような穏やかなものでした。
幕末を生き延び、そして明治時代もトップに君臨し続けた、長州元勲の代表格。
家族や親友を戦乱の中で多数失ったことから、その性格には陰がつきまとい続けました。
だからこそ、一度信じた者のことは見捨てない――そんな一面があることも触れておきましょう。
用心深く、庭や和歌を愛する人柄も持ち合わせていた山県。
同郷の伊藤博文とは異なる個性は今なお燦然と輝かせています。
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文:小檜山青
【参考文献】
伊藤之雄『山県有朋―愚直な権力者の生涯 (文春新書)』(→amazon)
『国史大辞典』