古関裕而/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

朝ドラ『エール』モデル古関裕而(こせきゆうじ) 激動の作曲家人生80年

テーマや詩を前にして、その情景を思い浮かべる。
すると、音楽がどんどん頭の中に湧いてくる
古関裕而

2020年上半期――朝ドラ第102作目『エール』は新たな歴史の始まりでもあります。

月曜日から土曜日までだった放送日が、金曜日までの週5日となるのです。

主役の古山裕一を演じるのは窪田正孝さん。

エールのモデルとなったのは作曲家の古関裕而氏です。

はて、そんな人、知らんな……。

という方はいても、以下の古関氏の曲名を見れば、一度も聞いたことがないとは言えないはず。

【古関裕而の代表曲】

「君の名は」※記録的人気ドラマの主題歌
「長崎の鐘」※長崎原爆の悲劇を描いた随筆を歌謡曲に
「栄冠は君に輝く」※甲子園のテーマ曲
「六甲おろし」※阪神の応援歌
「闘魂こめて」※巨人の応援歌
「紺碧の空」※早大の応援歌
「我ぞ覇者」※慶大の応援歌

特に真夏ともなれば、好き嫌いに関わらずこの曲が耳に入ってくることでしょう。

 

人々の魂を揺さぶるような。
奮い立たせるような。

戦時中の慰問先では地獄のような体験を経ながらも、日本人の心に潤いを供給し続けてきた。

稀代の作曲家・古関裕而の生涯をたどってみましょう。

 


本当の空の下で生まれた古関裕而

日本を代表する詩人・高村光太郎に、妻の智恵子が、こうせがんだことがあると言います。

「東京にはない、本当の空が見たい」

智恵子が見た本当の空とは?

阿武隈高地・安達太良山の上に広がる空のこと――。

そんな阿武隈高地に囲まれた福島県福島市で古関勇治は生まれました。

時は、元号が明治から大正へとなった1909年。盆地の福島は、山に囲まれた街です。

両親は長い間、子に恵まれず、養子を検討していたところでの男子誕生でした。

実家は呉服店の「喜多三」。古関最古の記憶は、母の背におぶさっていたそのぬくもり、そして子守唄です。汽車を見ること、そして音楽が大好きな少年でした。

音楽を愛する父は、当時まだ珍しいレコードをかけていました。

使用人の娯楽のために購入したもので、古関と音楽の本格的な出会いとなります。

商売は繁盛しておりました。
小僧10人が働いているほどの規模で、購入したのは蓄音機だけでなく、当時、東北で2台目というナショナル金銭登録機(レジのこと)が店にあったのです。

近所の魚屋には、野村俊夫という活発なガキ大将が住んでいました。

この街で遊んだ少年たちは、将来再会を遂げることになります。野村が作詞、古関が作曲家となるのです。

1916年(大正5年)、古関は福島県師範附属小学校に入りました。このころ世界は第一次世界大戦の真っ最中ですが、福島で学ぶ少年には想像もできないことです。

三年生になったとき、担任の遠藤喜美治は音楽の指導に熱心な教師でした。

彼は、1918年(大正7年)の『赤い鳥』創刊が契機である童謡運動の影響を受けていたのです。それは古関の小さな胸に刻まれました。

音楽の喜びに目覚めた古関は物静かながら、作曲となるといきいきして、たった一人で励むようになります。

同級生は彼に詩を持ち込み、それに古関は曲をつけるのでした。

まだ五線譜ではなく、数字譜の時代。古関は夢中になって楽譜を買い漁ります。

お気に入りの楽譜の表紙絵は、竹久夢二でした。

ともかく楽譜が欲しい。

小さな胸に、たくさんのメロディをつめこむ我が子に、母は卓上ピアノを買い与えました。

夢中になって演奏するうちに、習うでもなく彼は作曲を覚えてしまいます。音符、記号、楽譜の記述方……メキメキと、少年は音楽を頭に詰め込んでいくのです。

時は大正、流行歌の時代。福島の空の下で、音楽の寵児が育っていくのでした。

 


そろばんよりも音符に夢中

県立福島商業高校に進学した古関は、相変わらず音楽に夢中でした。

国語の時間ですら、音楽のことを一方的に語るほど。呉服屋の後継として、そろばんを学ばねばならないのに、頭にあるのは音符ばかりなのです。

このころ、日本も、家も、大いに揺れていました。

1923年(大正12)年に関東大震災が発生したとき、古関は楽器を買うべく書店にいました。

そのとき、揺れは福島でも感じられたほどであったのです。

家業も傾きます。
第一次世界大戦後にインフレが日本を襲ったのです。

呉服屋も傾き、使用人は暇を出され、染物屋になるしかありません。

そんな時なのに、古関はやはり作曲のことしか考えられない。教師が止めても、ずーっとハーモニカを演奏している。

弁論大会でハーモニカ合奏がされることになり、古関は意気込んで立候補しました。

家業のことよりも、彼が振り返る思い出は音楽のことばかり。

当時の学友は、音楽のことばかりを考えている、変な坊ちゃんとして彼のことを記憶しているほどです。レコードを聴いてそのままさっさと楽譜に書きつける古関の姿は、印象的なものでした。

古関は音楽だけでもなく、文才や画才もあったようです。ゲーテやシラーを愛読していました。

こうした関心は未来の妻・金子にもありました。

世界の全てを芸術にする――そんな奔放な存在だったのです。

 


作曲が趣味、そんな銀行員

商業高校を卒業しても、古関は福島市の『福島ハーモニカ・ソサエティー』入会の方が気になって仕方ないのでした。

無事に、ここで指揮を取れたことに古関は感動しています。

音楽が好きで、夢中で、作曲のことしか頭にない。卒業後17歳になった古関は、周囲からするとかなり変な奴でした。

音楽好きの仲間が聞かされた、フランスやロシアの民謡に熱中したり。家が大変なのに楽譜を買い込む我が子に、父が激怒したり。

家業が潰れて店主になれないことには、そこまで衝撃がなかったようです。

むろん、それは無職ということでもあります。

1928年(昭和4年)。
見かねた伯父が、川俣銀行への勤務を勧めてきました。

銀行業に何の興味もなく、音楽のことで頭がいっぱいながら、古関は承諾して銀行員になりました。

川俣町は、福島市から東に20キロほどの川俣町にあります。

ここでちょっとトリビア。

福島県では「**町」のことを「**ちょう」ではなく「**まち」と読みます。「かわまたちょう」でなく、「かわまたまち」になります。

勤務態度は、本人の回想をみると、とんでもないものがあります。

銀行業務よりも、工場から聞こえてくる音がいいと思っていたり。帳簿を描く合間に、好きな詩を元に作曲をしたり。『万葉集』のことを考えていたり。

1929年(昭和4年)、イギリスのチェスター楽譜出版社作曲コンテストに応募し、『竹取物語』が二等賞を受賞、賞金4千円を獲得しました。

プロの作曲家をさしおいて、川俣町の銀行員がこの成果ですから、只者ではありません。

せっかくだからイギリスに音楽留学してみっぺ!

古関はそう考えたようですが、金銭的な都合で断念しています。

しかし、この衝撃は終わりません。

古関の受賞は大快挙として、新聞記事になったのです。

 

かぐや姫と結婚する公達

1930年(昭和5年)1月、この新聞記事を熱心に読む女性・内山金子が、福島県からはなんとも遠い愛知県豊橋市にいました。

声楽を愛する彼女は、遠い福島県にいる、若き作曲家に憧れを抱きます。

そして、それから半年も経たない6月、古関裕而と内山金子は結婚。

早っ!
どういうこと?
思わずそう突っ込みたくなりますが、当時から周囲も呆気にとられるほどでした。

本人も結婚前後を通して、その辺の事情をあまり語っていないので、謎は多いのですが。ヒントはあります。

古関の妻・金子は、彼の2歳年下で、愛知県豊橋市生まれました。

当時の豊橋市は第十五師団の軍都であり、内山家も陸軍あって暮らしていけるようなもの。

男子1人に女子6人、そんな妻子を残して父は亡くなってしまいます。

音楽を愛する家の三女であった金子は、いささか未来の夫に似たところがあります。

馬の食糧を売る母の稼業を手伝うことよりも、読書と音楽が好き。音楽関係の道を夢見ながら、名古屋の雑誌社の手伝いをしていました。

そんなある日、古関の『竹取物語』の新聞記事を見て大興奮するのでした。

小学校五年のときに『竹取物語』の主役を演じて、あだ名が「かぐや姫」になったことがあったのです。

大好きな音楽で、あの物語を再現するなんて!
なんとしても楽譜が欲しい!

そう思った金子は、ファンレターを送りました。古関は、多数あるファンレターの中で、金子の手紙が印象に残りました。

音楽への愛を察知したのか。
イギリスに楽譜を送ったものの、控えを送ると丁寧に返信したのです。

自分と似た情熱を、互いに手紙から感じ取っていたのでした。

金子は冒険心がありました。
情熱もあって、音楽に関わる人生に憧れていました。

金子が作った『君はるか』という詩に、古関が曲をつける。運命と言いますか、なかなかすごいものを感じます。

声楽を愛した金子は、日本人にはかなり珍しいソプラノドラマティコの持ち主でした。

このかぐや姫は、誠意と音楽を贈った公達と結ばれるのです。

 


古関裕而になる

古関は、そんな新妻・金子だけを愛したわけではありません。

相変わらず音楽に熱中しておりました。

古関には熱愛する文通相手が妻以外にもいました。浮気をしていたという意味ではありません。

その相手は、なんと山田耕筰です。

音符を暗記してファンになった古関は、楽譜を添えたファンレターを送ったところ、山田から返信がありました。

このとき彼は古関裕而というペンネームを考えました。

学生時代は【楽治雄(らじお)】というなんともいえないものがありましたが、さすがに使い続けるわけにもいきません。

【勇治】は勇ましいようで、自分に合わない。昭和天皇の諱と一致するため、むしろ避けられていた【裕】の字をあえて使うことにしました。

劇中の名前からも、その字は取り除かれておりませんね。

これはかなりぶっとんだ思考回路です。
当時は、皇族と重なるだけで名付けを躊躇することこそが、当たり前でしたから。

・仕事中に作曲を続行

・大物作曲家にファンレターを送りつける

・そしてこのペンネーム

ぶっとんだ未来の作曲家が、福島にいたのでした。

ちなみに結婚のひと月前、5月には川俣銀行を退職しています。果たしてその理由とは……?

 

山田耕筰に認められ……上京だべ!

当時の古関が見逃せない技術が、当時広まりつつありました。

ラジオです。

東京でも出回り始めただけで、普及はまだ先。それでもいてもたってもいられず、手製ラジオを作ったのです。

しかし待ちに待った放送初日、何も聞こえて来ませんでした。

それでも彼はめげません。地方にラジオの波が押し寄せ、仙台も開局。ついには福島ハーモニカ・ソサエティーも出演します!

古関にとってワクワクする日々でした。

日本全国で、ご当地メロディーを作りたいと盛り上がり始めます。

福島然り。
かくして『福島行進曲』が生まれます。

 

この曲に注目が集まり、日本コロムビアから連絡がありました。

山田耕筰が、彼を推薦してくれたのです。

結婚一年目。
17歳の新妻・金子に相談して、古関はいざ上京を果たす……とは本人の回想ではありますが、狙い通りである形跡もあります。

時系列的に、自ら梯子を外していると考えられなくもない。

両親や周囲は困惑し、せいぜい演歌師の伴奏か、ご当地ソングでも作るのだろうと見守っていたようです。

もう反対しても無駄であろう――と諦めていたのか。無職よりはマシではあります。

ともあれ、夫妻は上京。金子は東京で帝国音楽学校に入学します。

夫婦の音楽愛が、上京を経て結実するのです。

 


竹久夢二の世界を歌にして

かくして、上京した古関夫妻は、妻の姉の家に転がり込みます。

当時は不況で、暗い世相でした。マイペースな古関も、音楽のことで出社するとなると、俄然張り切ります。

作曲家である彼は、呼び出された時だけ勤務すればよいものです。

だからといって、気楽ではない。

推薦者の山田耕筰への恩返しと、積まれた契約金と給料。居候先の義兄の給与が120円であるのに対して、古関は300円も貰っていたのでした。

この二つのプレッシャーをひしひしと感じ、ヒットを飛ばすと意気込む古関。

第一作は『福島行進曲』で、このB面に頭を悩ませます。

答えは彼の中にありました。

「『福島夜曲』だべな!」

これもドラマの上で重要な話になるでしょう。

1929年(昭和4年)。
福島で開催された竹久夢二展で、古関はある作品に夢中になりました。

『福島夜曲』――即興で描かれた絵に、民謡調の歌が添えてあったのです。

その歌をノートに書きつけ、古関は帰宅後、部屋にこもります。心が奏でるメロディを、楽譜に写したのでした。

できあがった楽譜を持って、古関は竹久の宿泊先・福島ホテルに向かいます。

紺絣を着た20歳の青年がやってきて、竹久は驚きながらも喜びました。

楽譜を差し上げて、歌い上げると、感動したのか、竹久が吾妻山のスケッチまで渡してきたのです。

偉大な画家だべ。

きっと、威張ってっぺな……そう思っていたのに、気さくな方だった――その思い出が、古関の胸に刻まれていました。

そしてあの『福島夜曲』から選んで、収録することにしたのです。

古関裕而と竹久夢二の交流は続きます。

竹久が個展で出会った古関夫妻に、扇子と歌を贈ったり。古関がなんとしてもと張り切って、竹久の絵を買い求めたり。

絵と音楽、芸術の幸運な出会いがそこにはありました。

1934年(昭和9年)、療養所から古関へと手紙を送り、竹久夢二は世を去ります。

それでも、思い出は残されたのです。

 

『紺碧の空』 早稲田にエールを送れ

残念ながら、最初のレコードは思っていたほど売れませんでした。

彼の歴史的なヒット曲は、1931年(昭和6年)の早稲田大学応援歌『紺碧の空』。

 

当時は、早慶戦がともかく大人気。エンタツアチャコの『早慶戦』も、これをテーマとしております。

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これも人の縁がきっかけで、レコード会社が頼んできたわけでもないものでした。

上京後の金子は、帝国音楽学校に入学しています。

そこで福島出身の伊藤久男と知り合うのですが、彼のイトコ・伊藤茂が早稲田応援部の幹部でした。

早稲田応援部の悩みは、ライバル慶応ほどいい応援歌がないこと。とりあえず作詞はできたものの、悩ましいのが作曲です。

「覇者、覇者、早稲田!」

この部分をどうするのか。

大物作曲家に謝礼を積まねばできないであろう――そう悩んでいるうちに、古関に話が来たのです。

しかし話を受けた古関も、簡単にはできませんでした。

血の気の多い応援部員にお茶と茶菓子を出し、接待を務める金子。彼女は、応援部員がどすどすと室内を歩き回るため、気が気でなかったそうです。

応援歌の経験がない中、古関は悩みつつも、発表会3日前に完成させます。

聞かされた団員はちょっと難しいかもしれないと困惑するものの、古関は自信を持って押し切りました。

新応援歌をひっさげた早稲田は、因縁の対決に勝利。

これぞ新時代だ!と喜ばれたこの曲は、記念すべきものとして歴史に刻まれるのでした。

ちなみに現在も、早慶戦や早明戦などの試合で得点が入ったときには『紺碧の空』が流され、早大生たちが肩を組んで盛り上がります。

このあと、翌1932年(昭和7年)には、長女・雅子が生まれています。

1934年(昭和9年)には次女・紀子が生まれました。

古関は人間的に難しい性格もうかがわせるのですが、それでも周囲は彼を理解したようです。

時に個性がきつすぎる彼を、師匠の山田耕筰は見守り、励まし続けていたのでした。当時大いにもりあがった『日米野球行進曲』も手がけて、古関はますます好調ではあります。

そんな彼も、世相にあわせた作曲を考えなければなりません。

当時の流行りは、どうにもはっきりしない、エロ・グロ・ナンセンスの流行。暗い世相を励ますような、そういう音楽も求められる。

雅子が生まれた年には『爆弾三勇士の歌』がヒットしています。

 

あえて古関【裕】而をペンネームにする彼にとって、合うわけもない世相なのです。

暗い世相を明るい歌で励ましたいのか。
コロンビアで、ライバル作曲家が増えたこともあり、古関の評価は低くなる一方でした。

他の作曲家ほど、流行に乗った作曲ができない。独自の信念で、音楽理念を貫こうとします。

しかし、契約解除を持ち出され、やっと世俗的な歌への迎合が必要なのだと気がつきます。

1933年(昭和8年)から、古関はスランプに入ります。

一方で、世相はレコード戦国時代に突入。コロムビア、ビクター、テイチク……争うように発売される中、1935年(昭和10年)『船頭可愛や』は初のヒットシングルとなります。

 


『露営の歌』そして従軍音楽部隊

1937年(昭和12年)。
古関は妻・金子と共に満州へ渡り、『露営の歌』を作曲しました。

金子のきょうだいが、満州にいたのです。

盧溝橋事件の後ではありましたが、それでも準備をしているからと、妻と共にわたったのです。

ロシア民謡を好んだ古関は、ロシア人バンドの演奏を楽しみます。

この旅で書き留めたメロディが『露営の歌』であり、『進軍の歌』のB面として収録、発売されました。

 

この歌が日本中で流れるようになると、故郷の両親も誇りに思うようになりました。

京都・嵐山には、陸軍大将・松井石根いわねが筆を執った歌碑すら作られたほど。
銃を持って行進する兵士の背を押す音楽を、古関は手がけたのです。この『露営の歌』こそが、まぎれもない彼の栄転ではあるのです。

1938年(昭和13年)、虚弱な二児の療養も兼ねて軽井沢に滞在している古関のもとに、コロンビアから従軍を要請する電話がありました。

世相とエンタメは、切っても切り離せないもの。
落語でも。

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宝塚歌劇団でも。

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吉本興業でも。

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軍部の要請である慰問をこなさなければ、事業を続けることはできません。

それは古関の愛する歌と音楽の世界でも、同じこと。

では彼は嫌がったのか?
それはどうでしょうか。当時はお国のため、名誉なこととされていたのですから。

1938年(昭和13年)、秋――。従軍音楽部隊として、西條八十と共に古関は中国へ向かいました。

この慰問団で、兵士の歓声を聞いた古関はハンカチで目をぬぐっている。そういう時間がありました。自分の歌に感動する兵士たち。その歓声に、彼は泣いたのです。

古関は、中国大陸を穏やかに回ろうとするものの、そう簡単にはいきません。

それが戦争なのです。

揚子江では砲撃を受けました。廬山では、4万の敵襲が迫っている情報もあり、身の危険も感じました。

そのことは、帰国後も続きます。

この年、古関の父が亡くなります。世の暗い転変が、彼の身にも迫っていました。

彼のバイオグラフィーも、世相を反映していきます。

『暁に祈る』
『海の進軍』
『英国東洋艦隊壊滅』

1941年(昭和16年)12月8日――。

真珠湾攻撃が起こったとき、国民は驚喜しました。

しかし、何をどうすれば勝利するのかすらわからなかった、と古関は振り返っています。

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従軍歌謡慰問団

 

1942年(昭和17年)、国民生活が窮乏する中のある日。ラジオ番組で『暁に祈る』の指揮を終えた古関に、ある電話があったと告げられます。

行き先はジャワ。
暗い日本から見れば、明るい南の島と思えなくもない、そんな場所です。

中国旅行では砲撃とアメーバ赤痢に苦しんだ古関ですが、そもそも断ることもできません。

放送協会南方慰問団――NHK前身の放送局が、NHK看板の朝ドラ主人公モデルをどんな目にあわせたのか。

画期的なことであると把握した上で、読み進めることをお勧めします。

徳川夢声を団長とした36名は、南方へ向かう船に乗り込みます。徳川は、2019年朝ドラ『なつぞら』豊富遊声のモデルです。

乗り込んだ船は、老朽船であり、しかも特別三等室。徳川が屈辱と怒りに身を震わせる中、一行は進みます。

敵襲には遭わず、船はなんとか陥落一年後のシンガポールに到着します。

しかしそこは、沈みかけた船が係留されているなど、どこか荒んだ空気が漂っておりました。

宿泊先も名前倒れのボロ宿で、お粗末なもの。しかし、南海の雄大な自然は、古関の心を大いに刺激しました。

『大南方軍の歌』を作曲、発表すると、なぜだか女性団員・奥山彩子が悔し泣きをします。

原因は、ある士官の言葉でした。

「藤原千多歌はかわいい顔だが、子供っぽい。豊島珠江、なかなかおもしろそうだな。夜、俺の部屋によこしてくれ」

石井みどりが失礼だと断ったものの、奥山は苦しくて苦しくて……泣くしかないのです。

そこへ、参謀謀長副官から電話が入ります。

「慰問団の若い女だけをよこせ。男はいらん」

徳川団長は激怒したものの、断れるわけもありません。女性慰問団員は、蒼ざめた顔をしながら着替えて出かけていくのです。

「皇軍に協力せんとする純情なる乙女を求む」
「大和撫子よ、常夏の国に咲け」

そんな美辞麗句で集められておきながら、歌で慰問すると集められておきながら、その現実は残酷なものでした。

女性団員たちは自殺を考えたこともあったほど。

古関は暗い気持ちになりました。
彼女らすら、こんな扱いだ。

軍と組んだ女衒に連れていかれた女性たちは、どうなってしまったのか……。

46歳である徳川のストレスは、もっとひどいものでした。酒を飲みつづけ、胃を壊し、ついには倒れてしまったのです。

徳川をクアラルンプールの病院に残し、慰問団は移動を続けるしかありません。

一行は、ラングーンに到着したのでした。

当時「地獄のビルマ」という言葉がありました。

しかし都市部は穏やかで、古関はその理由を不思議に思っていたのですが……その身でもって痛感することとなります。

ビルマを進んでいくと、天候が一変します。半袖の夏服であったはずなのに、コートなしでは進めないほど、寒冷なのです。

高低差のせいでした。

イギリス軍捕虜のコートで寒さをしのいだ古関ですが、兵士にはそれができたのかどうか……。

一応は好待遇であったはずの慰問団ですが、中国への道中であまりにひどい事件が続発します。

盲腸になった女性団員が、医薬品不足の中で粗末な手術を受ける。

山道を走っていたシボレーが、無謀な運転と山道軽視のために崖下に転落し、運転していた士官は即死。慰問団員も重傷を負う。

無謀な旅で死んでゆく士官のために『露営の歌』を口ずさむしかできない――そんな古関でした。

前線で慰問するとなると、兵士は大喜びです。

そんな彼らを前にして、命が危険だと思いながら、古関は指揮棒を振るしかない。女性団員は歌うしかない。それしかできないとはいえ、そのことがどれほど辛いことであったか。

各地をめぐり、ペナン空港で門松を見た古関は、激動の一年が終わったのかと呆然とします。

そしてクアラルンプールで、徳川夢声の見舞いをするのでした。

そこで彼は、驚くべきことをいいます。

「この戦争は、負けるかもしれんよ……」

古関がその理由を聞くと、”Gone With The Wind”(『風と共に去りぬ』)という映画の話をします。

得意の美声で、その主題歌を歌い出すのです。

 

「こんな映画を作る国に、戦争で勝てるわけがない……」

彼の留守中、浜崎中尉の案内で徳川は街を見て回っていました。

浜崎は華僑の街につくと、どこか落ち着きがないのです。

あの子が来ないか。
怯えているのです。

それは浜崎が殺した人物の子のこと。その子は父の死を知らず、毎日そのために牛乳を届けてくるのです。

「きみ、日本軍はシンガポールで大変なことをしたらしいよ……」

徳川はそう暗い顔でささやくのでした。

徳川と別れ、船に揺られ、古関は日本に着きました。

慰問団の半袖の服の上に、イギリス軍のコートを羽織る、奇妙な姿です。

DDTを頭からかけられて、古関の慰問団の旅は終わったのでした。

 

インパール従軍作曲家

 

1943年(昭和18年)――。
古関の作るメロディは若い兵士の励ましとなりました。

作曲家にとっては、自分の音楽を聞いた兵士が敵に突っ込み、お国のために命を散らすことこそが最大の名誉という時代でした。

古関は次々に軍歌を作曲します。

『若鷲の歌』
『海を征く歌』
『ラバウル海軍航空隊』

この年、陥落した【ガダルカナル島の戦い】では、古関の同郷である福島県の兵士が命を落としていました。

古関のいとこもその一人。
戦死というよりも餓死だと、古関は後に振り返っています。

1944年(昭和19年)――。開けてすぐに、大本営は【インパール作戦】を発表しました。

2017年朝ドラ『ひよっこ』ヒロインの叔父・宗男は、この作戦に従軍しています。

文学者、画家、そして音楽家が慰問団として同行する手はずが整えられていきました。幼い二児の父であり、福島では病の母を抱えた古関にも、その依頼が届きます。

「インパール陥落を見て、国民が奮い立つ歌を作っていただきたい」

古関には、内心、嫌な予感がありました。

断ろうにも、それはできません。

「貴下が万一亡くなられたら靖国に祀ります。ご母堂もそこまで重態ではないでしょう」

ほぼ脅迫され、やむなく台湾へ……。

靖国神社
招魂社=靖国神社に祀られる戦死者が英霊と呼ばれるのは何時から?

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洋上ではなく、飛行機で向かう最中、荒々しい操縦技能を見せられた古関は、どうにも複雑な気持ちであったようです。

台湾、サイゴン、アンコール・ワット上空を超えてビルマへ。

ラングーンにたどり着くと、こう言われました。

「インパール陥落はまだであります。ラングーンでお待ちください」

このころは、ブーゲンビリアの花や、小説家・火野葦平ひのあしへいの酔態、現地料理、現地の歌や踊り採録を楽しむ余裕はあったようです。

古関は作曲に励みます。

が、どうにも不穏。「すぐに陥落する」と説明されたインパールは全く落ちる気配がない。

それなのに作戦を説明する将校は、自信満々です。

部屋は真っ黒いカビだらけ。サソリが出る。蛇も出る。雨季のため、洪水になりそうな大雨が毎日のように降る。

街中ではペストが大流行中で、前線から戻ってくる従軍記者の様子もおかしい……。

そんな中、火野葦平の『ビルマ派遣軍の歌』に、古関は曲をつけました。

部隊歌も作ったものの、戦後まで残ることもありませんでした。

紛失したと本人は語っておりますが、見たくもなかった可能性も考えられなくもありません。

そんな中、古関自身も、デング熱に倒れてしまい、高熱で10日ほど死線をさまよいます。

古関も地獄の思いですが、「インパール作戦」はそれどころではありません。従軍した火野は、目をぎらつかせながら、朝日新聞支社で目撃したことを語ります。

「この作戦は全てがでたらめだ! 初めから勝ち目のない作戦を仕掛け、敗れた……全ては無謀、無意味だった……」

作戦について将校は、地図だけを見て意気揚々と語っていました。

大雨、疫病、泥――机上の空論をふりかざし、現実を見ようとしなかった。

そう火野は語ったのです。
火野はのちに、インパールの地獄を『青春と泥濘』(→amazon link)に残しています。

画家として従軍していた向井潤吉も、地獄の絵を残しています。彼らと古関を含めた三人は、地獄の目撃者として名を刻むこととなるのです。

※映画『野火』は戦地こそ違えど、戦場の地獄が表現されています

三人は、証言も聞きつづけました。

火野は戦後に戦犯とされますが、そのことに古関は「あれは犠牲者だ」と理解を寄せています。

8月、彼ら三人は帰国のため、ラングーンからシンガポールへ向かいます。
そこで古関を待っていたのは……。

母の訃報を知らせる電報でした。目がくらむほどの衝撃が襲ってきました。

さほど重態ではないとなだめすかされ、インパールまで連れていかれ、その間に母は亡くなってしまう。
訃報を受け取った夜、古関は一睡もできなかったのです。

サイゴンに着くと、古関は母の葬儀のために帰国したいと告げます。

「軍の特務計画に変更はありません」

すげなく断られる古関。
諦めきれず参謀本部へ向かいます。

そこで母の死を同情されながらも、さらなる任務を知らされます。『仏印派遣軍行進曲』の作曲と、在留フランス人向け親善演奏会の開催です。

仕事のために与えられたホテルはシャンデリアが輝き、目の前にはサイゴン川がある。

天国と地獄が交錯する、残酷な歴史がそこにありました。

参謀本部から羊羹やチョコレートといった菓子、楽器や楽譜等を土産にもらい、古関は帰国します。

持ち帰った菓子も、内地(日本本土)では贅沢なものとなっていました。

母の死から一ヶ月遅れて、古関は葬儀を執り行ったのでした。

 

それでも歌わねばならない時代

『海軍特別攻撃隊の歌』を発表したその年の10月、米軍はレイテ島に上陸。フィリピン沖海戦が勃発します。

この頃になると、軍歌作曲もますます厳しく、無茶苦茶な状況となります。

歌詞に軍の将校が、いろいろと注文をつけるのです。

「マッカーサーとニミッツの名を入れてくれ」

レイテは地獄の三丁目
→いざ来い、ニミッツ、マッカーサー

『比島決戦の歌』です。
作詞した西條八十にとっても、不愉快極まりない話です。

震えながら、そんな人名を入れたくないと抵抗していたそうです。

 

のちに西條は、この歌詞のせいで絞首刑になると嘆いたものでした。

これを知り、読売新聞記者にして音楽評論家であった吉本明光が、手紙をよこしました。無理に書き換えられたと、証言するという申し出でした。

幸いにも、西條は無事だったとのこと。この歌は、発表会すらできずラジオ放送でお茶を濁すしかありません。

日本中の子供たちが、ニミッツとマッカーサーの名を口にしながら走り回る。

そんな日々がありましたが、それも長くは続きません。

この歌は、マニラ陥落が見えてくると、放送すらされなくなりました。幻の歌は結局レコードにすらならなかったのです。

軍部がレコードを手放した時。
もはや破滅は目前でした。

 

兵士として従軍する作曲家

1945年(昭和20年)3月、硫黄島陥落の報告を耳にして、古関は苦しみました。

栗林忠道とは面識があったのです。

 

その数日後、赤紙こと召集令状が古関の元にも届きます。

「横須賀海兵団に入団せよ」

古関は丙種でした。
丙種は、甲乙丙のうちでも最低ランクであり、まず召集はされません。

兵士といえば、20前後が主力。36歳ともなれば老兵であり、新兵で召集することそのものが異常事態です。

この年には『特幹練の歌』も依頼されているわけでして、異常そのものなのです。

古関は驚き、海軍人事局に向かいました。

「福島連隊区司令部が、本名の古関勇治に気づかなかったのでしょう。一度出した召集令は取り消せませんが、『特幹練の歌』にも取り組んでおられますし、体験として少し入団なされてはいかがですか。召集解除しておきましょう」

そう言われましたが、この時期の日本がいかに無茶苦茶であるのかわかる逸話でもあります。

・依頼した作曲家の本名すらろくに共有できていない

・海軍本部と福島連隊の連携不足

・召集が完全に破綻していて、年齢も体力も不足した人が兵隊にとられた

古関は逃れたものの、そうできなかった人がどれだけいたことか……。

この数日後、東京は大空襲に遭遇します。

幼い娘を見送り、金子は消火活動に大奮闘。古関家は焼けずに済みました。

それから数日後の3月15日、ヘルニアを抱えながら古関は海軍兵団に入団します。

あの大空襲のあとだと思うと、おそろしいものがあります。皮肉にも、近所の人々が口にしていたのは『露営の歌』でした。

身体検査でヘルニアだと告げても、手術をするから心配ないと帰されるわけでもない。配属されたのは、芸術家や学者ばかりの第百分隊です。

日本の芸術的な才能と頭脳がやらされたのは、デッキ磨き、ハンモックで眠る訓練や名簿整理でした。

名簿を書きつけながら、古関は暗い気持ちにならざるを得ません。

この名簿にある名前も、自分のように令状を受け取り愕然とするんだべな……そう思ってしまう。

ヘルニア手術を受けられたものの、生卵二個と引き換えに他の患者のために献血するという、混沌の中で生きるしかない古関。
空襲もあり、もう死ぬしかないのか――そう悩んでいるところ、一ヶ月ほどでやっと解除されて帰宅したのでした。

しかし、帰宅しても娘と抱き合おうとはしません。

シラミがうつると遠ざけたのでした。

海軍からは『特幹練の歌』中止との命令が届きます。もう、歌どころではない状況だったのです。

 

古関家の戦争体験

日本中が、限界に達しつつありました。

古関家にも戦争は迫ります。

5月 大空襲を受けて二児を福島に疎開させる(関連記事

6月 沖縄陥落

7月 福島市も危険な状況に。二児を飯坂へ疎開させるため、妻を福島へと送るものの、腸チフスにかかる

海軍とのつながりが幸いし、古関は切符を入手できました。

福島に向かうと、金子の顔には死相が出ているほど。海兵団で腸チフスの予防接種を受けていた古関は、金子の看病に励みます。

福島での病院生活も幸いしました。旧友や知人が、貴重な生卵といった食料を分けてくれたのです。

そんな中、友人であり福島での生活を支えてくれた新聞記者の西山安吉にまで、令状が届きました。

150センチ程度であり、脊椎カリエスである西山。こんな兵士まで召集するとはもうこの国は終わりだ。古関はそう瞑目するほかありません。

8月になると、ますます福島の空襲も悪化していきます。

もう終わりかもしれない――そう覚悟しながら、日々を送る古関。そんな折、東京での出演依頼があり、戻ることとなりました。

福島駅で、見送りの新聞記者から、こうひそかに耳打ちされます。

「どうも戦争は終わるようです。日本は負けたようですね」

それから数日後。
8月15日、天皇陛下の放送があると古関は聞きました。

本土決戦だろうかと聞いていると、雑音混じりの放送を聞いた人々が嗚咽するのでした。

これで、降伏だ――。

降伏ならば仕事もないだろう。そう判断して、内幸町放送局の騒ぎを確認してから、古関は家に戻るのでした。ちなみにこの騒ぎとは、玉音盤をめぐる騒動です。

金子は降伏を聞き、ベッドから這い出して、日本の戦闘機を見て涙したそうです。

しかし、夫は現実的でした。

彼の回想によれば福島市のカトリック教会には、米軍が物資をわざわざ落としていったとのこと。

金子は回復していきます。
声楽を愛した金子は、戦時中でも空襲の合間に歌っていたほど。腸チフスから回復した金子は、透き通った歌声を取り戻したのです。

古関一家が疎開していた福島の温泉街・飯坂町にも回覧板が回ってきました。

縞模様のモンペはパジャマと間違えられるという警告を、軽井沢で外国人と接していた金子は笑い飛ばし、平然と履いていたそうです。

疎開先での古関の二児は、恵まれていました。

当時から福島は果樹王国であり、桃、リンゴ、ブドウ……気軽に売ってもらえるのですから。飯坂はドジョウや魚も取れました。

しかし、そんな幸運な人ばかりでもありません。

同郷の友人であり、彼の作曲した歌を世に出してきた伊藤久男は『紺碧の空』以来のつきあいでした。疎開先でも一緒であったものの、どうにもおかしいのです。

戦時中、軍歌を世に出してきたストレスによって、アルコール中毒に陥っていたのです。ついにはメチルアルコールにまで手を出し、顔面が変形してしまうのでした。

メチルアルコールによる悲惨な中毒は、当時あったものです。

命さえ落としかねないものでも、飲まねば生きていけないほど、辛い世の中でした。

この飯坂温泉には、米軍のジープが乗り付けておりました。一仕事終えた米兵たちは、温泉で疲れを癒していたのです。

このとき、古関はおそろしい経験をしています。

ジープに乗った米兵が通訳を連れてやってきて、『比島決戦の歌』のメロディを口ずさみ、歌うように促してきたのです。

震えながら、なんとか歌う古関。彼らは上機嫌で握手を求めてきます。

茫然自失としていた古関は、ジープの音が遠ざかったあとで気がつきます。

「褒めたと思ったんだべな……」

ニミッツとマッカーサーを地獄に落とすどころか、讃えた歌の作曲者だと誤解していたのです。古関は、生涯この歌の放送だけは断固拒否し続けました。

慰問団。アメーバ赤痢。インパール。デング熱。東京はじめとする空襲。海兵団。ヘルニア。腸チフス。

幾度も死線をくぐりながらも、古関一家は戦争を生き延びました。

 

戦後『鐘のなる丘』へ

戦争で日本が大旋回していくのですが、古関という人間には自分の生き方があります。

昭和21年(1946年)、長男・正裕誕生。
金子は腸チフスから回復し、夫の音楽活動とともに歩んでゆきます。

そんな古関の記憶にある生活は、あまりに生々しい敗戦の情景です。

・職場のラジオ局入り口には、米兵が立っている。トイレも米兵と日本人では別の階で分けられている。

・闇市で買ってきた食料を仕事場で調理し、空腹をしのぐ。米兵はこの悪臭が嫌い。くさやを焼きすぎた結果、焼き魚禁止令が出されてしまう

・仕事の合間に買う土産は、米兵由来のキャンディやチョコレート

・休息のために向かった温泉旅館でも、米兵がくつろいでいる。米兵の入浴時間を避けて、朝の四時に入るしかない

・英語を喋る人物がいるから、日系人米兵かと思ったら英語が得意な日本人だった

・闇市を歩くと、義手や義足の傷痍軍人がアコーディオンで悲しげな音楽を奏で、小銭を求めている

なんとも生活実感がこもった敗戦の記録です。

そんな敗戦のあと、人々は明るい希望を求めます。

娯楽であるラジオドラマでした。

古関のメロディは、兵士の背を押すものから、人々を笑顔に変えるものとなったのでした。彼のディスコグラフィーからも、平和の息吹がただよってきます。

タイトルからして、変わりました。

『白鳥の歌』
『夢淡き東京』
『雨のオランダ坂』
『フランチェスカの鐘』
『長崎の鐘』

 

『長崎の鐘』は、あの戦争で起きた原爆の悲劇を記憶する歌として、発表されています。

時代も彼も、変わったのです。

彼のメロディを聞き、涙を流したという手紙も届きました。

音色が心を癒す時代の塔らいです。

『イヨマンテの夜』

 

菊田の歌詞には、「メノコ」、「イヨマンテ」といったアイヌ語の単語が入っています。

同郷の友人である伊藤久男が、歌い上げました。

この曲は、タイトルからおわかりの通り、アイヌの世界を取り入れたものです。戦争を経て、それまで皇民として日本人になることを強要された彼らにも、新たな息吹が芽生えていました。

もっとも和人の古関がテーマの一つとして選んでいるからと、解放されるわけでもありません。それまでには、もっと長い時間が必要です。

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戦前から、菊田一夫と古関はよく仕事をともにして来ました。

昭和12年以来、菊田の死の48年まで36年間、彼らはともに仕事をしたのです。

戦後もそうで『山から来た男』主題歌を手がけています。作詞と作曲のゴールデンコンビでした。

そんな二人は、ラジオドラマ『鐘のなる丘』の主題歌『とんがり帽子』を手がけることになります。

孤児であった記憶のある菊田の詩に、古関は感動を覚えつつ、メロディをつけていきました。

この孤児をテーマとしたドラマも、世相に関係があるのです。

戦災孤児が、当時の日本にあふれていました。

アニメ『火垂るの墓』、2019年上半期朝ドラ『なつぞら』の主人公たちと同じ境遇なのです。

浮浪児救済キャンペーンの一環として、『鐘の鳴る丘』は企画されたのでした。

 

脚本家として指名された菊田は、15分という放送枠を渋ったものの、断れません。この企画は、アメリカのソープ・オペラのような番組として始められたものでした。

かつて古関を南方慰問団に送り込み、命の危険すら味合わせた放送協会。

その戦後の姿であるNHKが、始まろうとしています。

15分間のドラマは、テレビとなると朝の連続テレビ小説になるわけであり、古関がその枠主役に起用されるということは、実に象徴的なことなのです。

その悩みは当初からあったようでして。菊田のプライベートトラブルのせいで、遅れる脚本に古関は悩まされたとか。
愛人を捨てた復讐がらみですが、そこをドラマで扱うかどうか気になるところではあります。

その後も、菊田と古関のラジオドラマは続きます。

『西遊記』
『さくらんぼ大将』

『西遊記』には、慰問団で一緒だった徳川夢声も参加しています。

 

『栄冠は君に輝く』そして『君の名は』ブーム

戦争の終結とは、スポーツの復活でもありました。

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そして野球が、やっと息を吹き返します。

1947年(昭和23年)、甲子園のための歌は、古関のメロディに託されました。それこそが、第30回大会から採用された『栄冠は君に輝く』です。

歌うのは、あの伊藤久男でした。

 

時代の転変といえば、創作オペラも欠かせません。

『朱金昭(チョウキンチョウ)』
『トゥランドット』
『チガニの星』

こうしたオペラでは、妻・金子とともに山口淑子が共演をつとめたのです。あの戦争までは、李香蘭という姑娘(クーニャン・中国人女性)として、プロパガンダ映画のスターであったあの女優です。

逮捕され、奸漢(祖国を裏切った中国人スパイ・売国奴)として裁きを待つ身であった彼女は、間一髪の差で日本人であると証明され釈放されました。

一方、彼女と懇意であった川島芳子(清朝皇族、愛新覺羅顯㺭)は処刑されています。このことは、彼女の胸に深いサバイバーズギルトを刻んでいたのです。

古関のメロディは止まりません。

『長崎の雨』
『恋を呼ぶ歌』
『憧れの郵便馬車』
『ニコライの鐘』
『鐘づくし』

そして、あの伝説のラジオドラマにも菊田とともに関わります。

『君の名は』です。

 

放送時間は銭湯から人が消えた――そんな伝説の作品。春樹と真知子のすれ違いに日本中が熱狂しました。

北海道編からは、

忘却とは、忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ――

という朗読が入り、これまた人々の胸に焼きつきます。

この『君の名は』には、戦後エンタメの要素がみっちりとつまっています。

 

・メディアミックス戦略
→映画、ドラマ化……その反響は続いていきました。

・ファッションとコスプレ
→映像化された際には、ヒロイン・真知子を真似た【真知子巻き】が大流行しました。

◆ファッション?それともコスプレ?「真知子巻き」

・聖地巡礼
→これは近年のことではありません。舞台地にはファンが殺到し、真知子が触れた岩は名前がつけられしめ縄が貼られたほど。
近くの土産屋では、【真知子漬け】が販売されました。摩周湖と美幌峠には記念碑まで。舞台地を通るバスツアーではバスガイドがプロットの説明をしたそうです。
春樹や真知子と、我が子に名付ける親も多かったとか。

映画『ひめゆりの塔』主題歌も、古関は手がけました。

第4回NHK放送文化賞受賞者に、古関裕而が含まれたことは当然といえました。NHK創世記のメロディを奏でた人物とは、まさしく彼なのですから。

明るい世相と、暗いあの戦争。
そのどちらもメロディで描いたのです。

原爆投下以来、日本人に刻まれた恐怖は、怪獣映画になりました。

『モスラの歌』を手がけたのも、古関です。

 

国民音楽作家として

その後の古関は、並ぶ者なき大御所として、さまざまな仕事を手がけます。

東宝ミュージカル。

1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは『オリンピック・マーチ』。

1972年(昭和47年)の札幌オリンピックでは『純白の大地』。

唯一無二、国民音楽作家として名を残してゆく古関裕而。1989年(平成元年)8月18日、80歳で世を去るまで、その名声は確かなものでした。

没後、国民栄誉賞を打診されるものの、遺族は辞退しています。

晩年の古関は、こうつぶやいたことがあります。

「予科練の歌を歌って、特攻隊員として亡くなった方を思うと、胸が痛む……」

いくらメロディが美しかろうが、素晴しかろうが。

そのことは彼の胸から消えない痛みだったのでしょう。

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文:小檜山青

【参考文献】
『古関裕而自伝 鐘よ鳴り響け』古関裕而(→amazon link
『古関裕而物語』齋藤秀隆(→amazon link
『評伝古関裕而』菊池清麿(→amazon link
『従軍歌謡慰問団』馬場マコト(→amazon link
『国史大辞典』

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