1905年(明治38年)9月5日はポーツマス条約が締結され、その直後に日比谷焼打事件が勃発した日です。
日露戦争の締めくくりとして結ばれたこの条約。
勝利と喧伝されながらも、日本人には酷く不評で、昨今大人気の漫画『ゴールデンカムイ』でも、かなり重要な出来事として描かれています。
というのも、同作品は、日露戦争直後の北海道が舞台であり、登場人物の多くが日露戦争に従軍していましたが、皆、戦地でトラウマや苦い思いを抱え、政府の対応に大きな不満を抱いていたのです。
第1巻の3話から、こんな象徴的なシーンがありました。
銭湯の客「兄ちゃんたちが戦ってくれたから 日本は南樺太を取り返せた おかげでこの港町はこれからもっともっと栄えるだろう 本当にご苦労様でした」
杉元「……儲かるのは商人だけだろ」(ゴールデンカムイ
第1巻より)
吐き捨てるように呟いたのは主人公の杉元。
そのような不満を抱いていたのはなぜなのか?
日露戦争とポーツマス条約、そして直後に発生した日比谷焼打事件を振り返ってみましょう。
薄氷勝利からのポーツマス条約へ
幕末以来、日本は北方ロシアの脅威をひしひしと感じていました。
例えば明治3年(1870年)には、ロシアが樺太のクシュンコタンを襲撃。
日本政府は、その処遇に困り果てました。
そんな最中、日露問題に介入してきたのがイギリス公使ハリー・パークスです。
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彼はコップを投げつけ砕きながら、こう語気を強めてきたと言います。
「樺太なんて、古船一艘の価値もない土地です。ロシアにくれてやればいい。樺太問題でロシアと揉めたら、日本の運命は、このコップのようになりますよ」
かくして明治8年(1875年)、日本政府とロシア帝国の間で【樺太・千島交換条約】が成立し、樺太はロシア領となりました。
そしてその後、日露間は多くの権益で対立を激化させ、ついに日露戦争が始まりました。
ロシアは当時、止まらぬ帝国崩壊の流れに苦しんでいました。
欧米列強の中でも”Russian Bear(ロシアのヒグマ)”として恐れられていたとはいえ、実情は満身創痍。
日露戦争は、ロシアというヒグマに、日本という小さなクズリが噛みついたようなものかもしれません。
確かに勝利はした。
されどロシアは腐っても大国ですし、日本側の損害も小さくない。
まさに薄氷を踏むような勝利であり、その後に待っていたのがロシアとの交渉、その末の【ポーツマス条約】でした。
※傑作映画『二百三高地』を見れば、薄氷の勝利だったとよくわかります
もはや戦争遂行能力はない
1905年(明治38年)3月【奉天会戦】。
日本軍の勝利で、この戦いは終結しました。
しかし、児玉源太郎は勝利を喜ぶことすらできません。
ここまでで動員兵力は108万人。
戦費は20億円。
戦死傷者は20万人。
さらに続ければ、一年で25万人の兵士と、15億円の戦費がかかってしまう。
そこまで動員余力がないのは明らかでした。
そこで、なんとか「奉天会戦」勝利の中で、講和に持ち込まねばならない――日本側は、そう考えていたのです。
講和会議に挑んだのは小村寿太郎。
アメリカへ旅立つ小村は、盛大な見送りを見てこうつぶやきました。
「戻ってきたときは、逆の反応をされるでしょうな……」
そのとおり、小村の嫌な予感は的中してしまいます。
腐っても大国ロシア 賠償金どころの話ではない
振り返ること10年前。
1894年に始まった日清戦争に勝利した日本は台湾を得て、賠償金も獲得しておりました。
今度もそうなるだろう――と、国民は皆、胸を躍らせておりました。
当時の国民は、ロシアから
◆樺太・カムチャッカ・沿海州全部の割譲
◆賠償金30〜50億円
これぐらいの戦利品はもらえるだろうと踏んでいたのです。
政府の苦しい実情を知らない庶民は、新聞があおり立てる勝利の熱気を信じ、すっかりソノ気。
一方で小村は、桂太郎のロシアに対する要求の中に「賠償金」が含まれていることにウンザリでした。
「桂の馬鹿が! 金なんて取れると思っているのか」
小村の前に立ち塞がったのは、ロシア随一の政治家ヴィッテでした。
崩壊する帝国の中、数少ない希望といえたのは、彼の辣腕ぶりです。
ヴィッテの強硬な態度に困り果てた小村は、このままでは議論も永遠に平行線で講和が成立しない、と政府に電報を打ちます。
明治政府は大慌てで元老と閣僚を呼び、御前会議を開催、領土と賠償金を放棄してでも講和すべし――と小村に伝えました。
ニコライ2世も南樺太ならばと折れ、かくしてポーツマス条約は合意に至ったのです。
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政治家の暗殺に躊躇はない
ポーツマスでは祝砲が鳴り響き、アメリカやヨーロッパの新聞は、日本は人道的で素晴らしいと絶賛。
金もいらない、土地もいらない、道義のために戦う日本、素晴らしい、というわけです。
メリットはあった、ともいえます。
・朝鮮半島における日本の優位性確保
・満州からのロシア軍撤退
・樺太南半分の獲得
・大連と旅順の租借権をロシアから得る
粘り腰で交渉した小村の面目躍如でした。
しかし、です。
日本国民と新聞は納得しません。
ロシア相手に、こんなに苦労して勝利を得たというのに、たったこれだけ? と、むしろ冷や水を浴びせられた気分です。
桂太郎の家には石が投げつけられ、愛人宅(お鯉こと安藤照)には脅迫状まで届けられました。
日露戦争の真っ最中に、親子ほど歳の離れた女を妾とした桂は、人々から酷く憎まれてもいたのです。
その憎悪はお鯉に向けられ、殺人予告までされてしまい、首相官邸に匿われたことすらありました。
戦前の日本人は、奸悪とみなした政治家を殺すことに躊躇がありません。
それだけではおさまらず、ついには暴力事件まで発生します。
1905年9月5日、ポーツマス条約に反対する人々が暴徒と化し、【日比谷焼打事件】が起こるのでした。
それは一体どんな事件だったのか。
日比谷焼打事件
騒ぎは神戸や横浜におよびました。
電車が焼き討ちにされ、教会には石が雨あられと投げつけられ、ついには鎮圧に軍隊で出動。
検挙者2千人という大事件となります。
暴徒の大半は血気盛んな人夫・車夫・馬丁、当時の都市で最下層の労働者たちでした。
日常生活の怒りや社会への不満が、こうした暴動にぶつけられたのでしょう。
政府は対応を迫られます。
まずは9月6日、帝都初の戒厳令。
外患ではなく、内憂で戒厳令まで出される、まさに異常事態です。
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あわせて、新聞雑誌取締令が出されました。
明治政府の成立以降、「新聞紙条例」「讒謗律」という法律により、政府は新聞やジャーナリズムを厳しく取り締まってきました。
言論の自由と弾圧の間で駆け引きが続いてはいたものの、変化の兆しはありました。
明治30年(1897年)には、内務大臣による新聞発行停止権が廃止されていたのです。
ところが、日比谷暴動にともなう戒厳令の中で、それすら反故。
記事だろうが、広告だろうが、暴動を煽るようなものがあれば、即座に取り締まり対象とされました。
戒厳令と言論統制というセットが、国民を縛るようになったのです。
政府寄りの新聞以外は、地方紙まで発刊停止というあまりに強硬なものでした。
ゴールデンカムイの杉元たちが読んでいてもおかしくない北海道の『小樽朝報』も、停止されています。
特に厳しい処分を受けたのが『東京朝日』でした。
発行停止期間は15日。
政府批判。非戦論者。彼らの口と筆は封じられていました。
戦地で日比谷の騒動を知った兵士は激怒
漫画『ゴールデンカムイ』を読んでいるときに、ふと考えました。
『もしも、戦地で日比谷の騒動を知ったら?』
実際のところ、戦地で日比谷の騒動を知った兵士たちは、こんな風に憤っていたようです。
「ふざけんな、てめえら! こっちはやっと生きて帰れるとほっとしているんだぞ。そんなに戦いてえなら、てめえらが満州に来い!」
過酷な戦場に駆り出され、せっかくの停戦を否定されるようなものですから、そりゃそうなりますよね。
停戦後、兵士たちは日々の食事くらいしか楽しみもないまま、時が過ぎるのを待っておりました。
「最近、全然戦闘がないな」
「このまま戦争は終わるのでしょうか?」
「結局、どっちが勝ったのだろうなあ」
「そりゃ、日本でしょうよ」
「それはわからんぞ……」
というようなことを、兵士たちはひそひそ語り合っていたとも。
こうしたやりとりをふまえ、冒頭の漫画のセリフ(杉元と銭湯の客の会話)を読み返しますと……まあ、そりゃそうだね、と思えてきます。
勝利の苦い味
帰国した帰還兵を待っていたのは、熱狂的な歓迎でした。
ポーツマスから戻ってきた小村も、我が子の顔を見ると安堵の表情を浮かべます。
留守中に外務大臣の邸宅が襲撃され、家族が殺害されたという噂が流れていたため、顔を見るまで安心できなかったのです。
伊藤博文はわざわざ港まで駆けつけ、汽車で新橋まで話し込みました。
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新橋駅では首相・桂太郎と海軍大臣・山本権兵衛が両脇をガード。
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もしも刺客が小村を討とうとしたら、三人まとめて死んでもいいから守るという意気込みでした。殺伐とした空気が伝わって来ます。
日露戦争の苦さは、海外の人々も味わうことになりました。
朝鮮半島では、日本の支配下のもと、現地の人にとっては苦しい時代が始まります。
アジアの勝利に湧いたインドのネルーは、日露戦争の勝利を大絶賛したあと、日本はアジアではなく帝国主義の側についてしまった、と苦い回想を残しています。
そしてもちろん、日本国内の人々も……。
日露戦争の苦しい内実を国民に知らせぬまま、講和にふみきった政府。
大衆を煽った新聞や名士たち。
暴動を契機に、厳しい言論統制へと乗り出した国と、それに従うしかない国民たち。
薄氷の勝利だったことを知らず、我々はあのロシアすら倒した!と思い込み、歴史の先へ――。
どこかでボタンを掛け違えたまま、日本はこの先、軍国主義への道を歩み始めるのでした。
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【参考文献】
黒岩比佐子『日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書』(→amazon)
『国史大辞典』












