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【ポーツマス条約と日比谷焼打事件】
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腐っても大国ロシア 賠償金どころの話ではない
振り返ること10年前。
1894年に始まった日清戦争に勝利した日本は台湾を得て、賠償金も獲得しておりました。
今度もそうなるだろう――と、国民は皆、胸を躍らせておりました。
当時の国民は、ロシアから
◆樺太・カムチャッカ・沿海州全部の割譲
◆賠償金30〜50億円
これぐらいの戦利品はもらえるだろうと踏んでいたのです。
政府の苦しい実情を知らない庶民は、新聞があおり立てる勝利の熱気を信じ、すっかりソノ気。
一方で小村は、桂太郎のロシアに対する要求の中に「賠償金」が含まれていることにウンザリでした。
「桂の馬鹿が! 金なんて取れると思っているのか」
小村の前に立ち塞がったのは、ロシア随一の政治家ヴィッテでした。
崩壊する帝国の中、数少ない希望といえたのは、彼の辣腕ぶりです。
ヴィッテの強硬な態度に困り果てた小村は、このままでは議論も永遠に平行線で講和が成立しない、と政府に電報を打ちます。
明治政府は大慌てで元老と閣僚を呼び、御前会議を開催、領土と賠償金を放棄してでも講和すべし――と小村に伝えました。
ニコライ2世も南樺太ならばと折れ、かくしてポーツマス条約は合意に至ったのです。
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政治家の暗殺に躊躇はない
ポーツマスでは祝砲が鳴り響き、アメリカやヨーロッパの新聞は、日本は人道的で素晴らしいと絶賛。
金もいらない、土地もいらない、道義のために戦う日本、素晴らしい、というわけです。
メリットはあった、ともいえます。
・朝鮮半島における日本の優位性確保
・満州からのロシア軍撤退
・樺太南半分の獲得
・大連と旅順の租借権をロシアから得る
粘り腰で交渉した小村の面目躍如でした。
しかし、です。
日本国民と新聞は納得しません。
ロシア相手に、こんなに苦労して勝利を得たというのに、たったこれだけ? と、むしろ冷や水を浴びせられた気分です。
桂太郎の家には石が投げつけられ、愛人宅(お鯉こと安藤照)には脅迫状まで届けられました。
日露戦争の真っ最中に、親子ほど歳の離れた女を妾とした桂は、人々から酷く憎まれてもいたのです。
その憎悪はお鯉に向けられ、殺人予告までされてしまい、首相官邸に匿われたことすらありました。
戦前の日本人は、奸悪とみなした政治家を殺すことに躊躇がありません。
それだけではおさまらず、ついには暴力事件まで発生します。
1905年9月5日、ポーツマス条約に反対する人々が暴徒と化し、【日比谷焼打事件】が起こるのでした。
それは一体どんな事件だったのか。
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