・長州藩
・陸軍
・元勲
このキーワードから導き出される人物は?
そんな問いかけをしたら、おそらく多くの方がこう答えるでしょう。
山県有朋――。
同じ長州の伊藤博文と似たような出自・経歴をたどってきたのに、なんだか雰囲気が違う。
山県のほうにはドコか翳がある。
それはナゼなんだろう……と考えると、山県の人生そのものが苦渋の連続だったからかもしれません。
つぶらな瞳の奥にはどんな想いが隠されているのか。
本稿では、大正11年(1922年)2月1日が命日となる、山県有朋の生涯を見ていきたいと思います。

山県有朋/国立国会図書館蔵
どこか寂しい家庭環境
山県は天保9年(1838年)、長州萩城下川島村(現在の山口県萩市川島)に生まれました。
父は有稔、母は松子。
幼名は辰之助(たつのすけ)、小助(こすけ)、小輔(こすけ)。
父は手小役(てこやく)と呼ばれる雑用係の下級役人でした。
山県は少年期から槍術に励みました。
勉学は、父・有稔が教えます。この有稔は和歌国学に傾倒しており、我が子にも影響を与えるのです。山県は和歌をよく詠みました。
15歳で元服した山県は手小役として勤め始めると、ほどなくして日本は激動の時代を迎えます。
嘉永6年(1853年)、黒船の来航です。
山県の家庭環境は、寂しいものでした。
わずか5歳で母を失い、かわりに彼を育てあげたのは祖母。
その祖母も元治2年(1865年)、仕立てたばかりの縮緬(ちりめん・絹織物)に身を包み、投身自殺を遂げてしまいます。
山県が高杉晋作と藩を立て直すべく奔走していた頃です。
孫の足手まといになるまいと死を選んだのだ――と、後に山県は回想しています。
先だって4年前には実父も亡くなっており、彼の血を分けた親族は5歳上の姉・寿子のみ。
慶応3年(1867年)に結婚した妻・友子も42歳という若さで明治26年(1893年)に先立っております。
夫妻の間に生まれた三男四女も、二女・松子をのぞけば、8歳までに夭折してしまいました。
黒船来航以来走り続けた山県に、つきまとう暗い影。
山県は、人間を深く信じることができないのではないか……という疑念に苛まされます。
彼自身、病弱な一面があり、青年期に迎えていた幕末動乱の最中にも、しばしば病気療養をしていたほど。
長州藩の人々は、理屈っぽく智を求める傾向があり、薩摩藩の人々は異なるという印象が抱かれがちです。
山県の場合、そんな長州人としての気質だけではないどこか寂しい部分も、生涯つきまとうのでした。
松蔭先生の言葉より……その名は「狂介」
山県のような足軽・仲間組の子弟は、藩校「明倫館」で学ぶこととは無縁です。
ではどうすれば、この動乱で身を立てられるのか?
江戸や京都に出て、時代の空気に触れるしかなかろう――そんな熱気が、長州藩で立ちこめ始めます。
山県にチャンスが訪れました。
安政5年(1858年)、長州藩が京都に派遣する6人の藩士の一人に選抜されたのです。
親友である杉山松介の推挙によるもの。
なお、この杉山は後の【池田屋事件(1864年)】で死去しております。親友とも縁が薄い、そんな山県でした。
山県は京都で、久坂玄瑞や梅田雲浜と交流を結び、影響を受けます。

久坂玄瑞/wikipediaより引用
帰国後の10月、久坂の推薦で松下村塾入りま。幕末に活躍した塾生の中では、入塾も遅いほうでした。
翌年の安政6年(1859年)には吉田松陰が、老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画に問われ、斬首されてしまったのです【安政の大獄】。
ほどなくして万延元年(1860年)、今度は井伊直弼が暗殺されました【桜田門外の変】。
青年となっていた山県の心にも強く陰を落としたことでしょう。
文久2年(1862年)頃、「狂介」と改名。
「狂」というとちょっと物騒に思えるほどですが、吉田松陰の教えにこのような言葉があります。
「諸君、狂いたまえ」
狂うほど何かにのめり込み突き進め――そういう意味です。
追い込まれていく長州
文久3年(1863年)、山県は、高杉晋作が組織した奇兵隊の軍監を務めることとなります。
小手役からの大出世。
年齢が近く思想も一致する高杉晋作と、意気投合していたのですね。

高杉晋作/wikipediaより引用
しかし、時代は激動の最中。
長州藩は、度重なる危難にぶつかります。
文久4年から元治元年(1864年)に変わろうとする数年は、まさに危機一髪の正念場でした。
詳細を省き、長州が追い込まれていった事件を時系列で並べて参りましょう。
【長州】
下関戦争(1863年と1864年)※外国相手にフルボッコ
長州征伐(1864年と1866年)※幕府に軍を派遣され
長州征伐のうち1866年次については、直前に【薩長同盟】が秘密裏に結ばれており、窮地から脱する起点になったとも言えますが、度重なる事件により久坂玄瑞や入江九一らの松下村塾門下生たちが数多く命を落としました。
後に首相となる伊藤博文や井上馨らは海外留学を機に攘夷を控えるように改めます。

若かりし頃の伊藤博文/wikipediaより引用
しかし山県は、それを認めようとはしませんでした。
実際、山県らはこの頃、正念場を迎えておりました。
長州内も決して一枚岩とは言えず、藩内は
「正義派」
vs
「俗論派」
に分裂、激しい権力闘争の末に、山県らが藩の実権を握ったのです。
山県の俗論派、および俗論派との融和を目指した赤禰武人(あかね たけと)への憎悪は凄まじいものがありました。
赤禰の実績を抹消しようとしたほど。
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第二次長州征伐が行われた際の山県は、防衛を担当した小倉口から小倉藩領に攻め入ります。
そして山県はある思いを抱くようになりました。
【薩長同盟】によってその思いはますます強くなります。
武力倒幕を目指せ
山県の思いとは、武力による倒幕でした。
よく誤解されがちですが、薩長同盟は、倒幕を意図したものではありません。
薩摩藩では武力倒幕に慎重な意見もありましたし、薩摩藩と盟約関係にあった土佐藩も、武力倒幕には慎重な姿勢を見せておりました。
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京都でも、穏健な政権交代を目指す勢力と、武力倒幕を目指す勢力が両立。
長州藩と対立していた会津藩でも、山本覚馬らが穏健な政権交代を探っておりました。
慶応3年(1867年)夏、山県は藩命で京都に向かい、西郷隆盛や島津久光と顔を合わせます。
どうやらこのあたりで、薩摩藩は長州藩にあわせ、武力倒幕に舵を切るようになったのではないか?と思われる節があります。
それが赤松小三郎の暗殺事件です。

赤松小三郎/wikipediaより引用
赤松は山本覚馬のような会津藩関係者とすら接触していたため、情報漏洩をおそれて殺害されたとされております。
しかし、どうにもこの背後には長州藩の陰が見え隠れしているのです。
同時期、坂本龍馬も凶刃に斃れました。
こちらの暗殺の背後には会津藩がおります。
穏健な政権交代への道は徐々に断たれ、ついに戊辰戦争へ。
山県は、北越戦争に参戦。
この戦場には、ガトリング砲で武装した越後長岡藩の河井継之助がおり、大激戦となります。西郷隆盛の弟・西郷吉二郎が戦死を遂げたほどです。

河井継之助/wikipediaより引用
山県も、裸で瓢箪一つぶら下げてたまらず逃走をしたほどで、後にこのことを指摘されると「いやあ……」と彼も応じるほかなかったのだとか。
さらに痛恨事がありました。
奇兵隊の時山直八(ときやま なおはち)の救援に向かうものの間に合わず、戦死してしまったのです。
親友であった時山の死は、山県の心に深い傷を残しました。
こうした戦いの中、薩摩藩との連携にも齟齬が生じてきます。
勝者にとっても、苦い戦いだったのでした。
「狂介」改め「有朋」へ
明治3年(1870年)。
幕末という動乱が終わり、山県は西郷従道とともに欧州へ派遣されました。

西郷従道/wikipediaより引用
もはや攘夷などと言ってられるワケもなく、決別する必要があります。
ただ、どうしても山県は、松陰由来の思想から抜けきれない。
彼の目から見たヨーロッパは、むしろイギリスすら王権が弱まりつつある嘆かわしいものであり、フランス革命以来の民主主義は、彼にとって厭わしいものに思えたのです。
明治維新は、民衆の力による「革命」とみなされ、「フランス革命」になぞらえる意見もあります。
2018年大河ドラマ『西郷どん』では、まさにそういう見方をしておりました。
しかし、肝心の薩摩や長州がそういうものを目指していたかというと、極めて疑わしいものです。
英語での「明治維新」は、”Meiji Restoration”という呼び方が定着しています。
” Meiji Revolution” という呼び方もあるにはありますが、前者の方が優勢です。
海外からすれば【明治は革命ではない】ということでしょう。
そしてこのころ山県も改名を果たします。
「狂介」から「有朋」へ。
朋が有るという意味です。同時に「含雪(がんせつ)」という号も使うようになりました。
松陰由来の狂ったように突っ走る激情から、朋友と共に歩んでゆく――そんな心境の変化があったのでしょう。
雪という冷たいものを含んでゆくという号からも、そんな心を感じます。
これも、幕末という動乱の中、育ての親である祖母だけではなく、友人たちを失っていった山県の境遇を思いますと、なかなか心に迫るものがあります。
山県の言動からは、どこか暗い面が感じられます。
赤禰武人の事績を抹消しようとしたこと。
山川浩が陸軍少将に出世する際に「山川は会津じゃろが」と妨害しようとしたこと。

山川浩/wikipediaより引用
数々の言動の裏には、俗論派との争いで祖母を失ったという思い。
会津藩の指揮下にあった新選組による池田屋事件で親友を失ったという思い。
そうした親しい者を奪った側への怒りがあったのかもしれません。
改名や号にせよ、こうした言動にせよ、山県の味わってきた苦い思いが関係しているのでしょう。
陸軍の建設と廃藩置県に尽力
そんな山県は、明治政府の陸軍を作り上げた者として名を上げます。
徴兵制度等を学んで帰国後、兵部少輔として軍制改革を実行。
明治3年(1860年)末、島津久光を東京に招くため、山県とともに岩倉具視が薩摩へ向かいました。

島津久光/wikipediaより引用
ここで「御親兵」の設置を西郷に提案するのです。
病気であるという久光に代わり、西郷を東京にまで引き出したのも山県でした。
『西郷どん』での西郷隆盛は、息子の説得で薩摩から東京へやって来て、西郷自身が「御親兵」を考え出したような描き方ですが、違います。
山県です。彼を侮辱したとも言える表現にも思えてしまいます。
明治4年(1861年)、廃藩置県が実施され、山県は兵部大輔となります。
このときはまだ兵部卿は空席であったため、実質的に33歳の山県がトップでした。
山県は、廃藩置県に続き、政府直轄の陸軍創設という改革において大きな役割を果たします。
明治5年(1862年)には、兵部省の陸海分割により、陸軍大輔に転じました。
欧州視察で学んだ徴兵制を推進、翌年実現に導くことになったのです。
陸軍省瓦解の危機
ただし、この年には痛恨事が起こっております。
明治5年(1872年)、長州出身で軍需品に携わっていた商人・山城屋和助が、生糸相場に手を出し失敗しました。
しかも、このあと輸出を増やすための視察という名目でフランスに渡り、一流女優と豪遊までしていたのです。
ここまで派手に遊び回る和助が、話題にならないはずもありません。和助には陸軍省公金が流れていたことが判明します。
事件の背後にいると目された人物こそ山県でした。
和助はかつて奇兵隊士として、山県の配下にあったのです。
薩摩閥の政治家らは、山県に厳しい追及の目を向けました。
徴兵制度への反発、長州閥が近衛兵を統制しようとしているという反発も、背後にあったゆえのことです。
かくして山県は、陸軍大輔・陸軍中将・近衛都督の辞任に追い込まれます。
代わって近衛都督兼参議には、西郷隆盛が就任しました。
なお、山城屋和助は山県から借金返済を迫られるものの、返すことができず、割腹自殺を遂げています。
こうして事件は闇の中に葬られた感がありますが、世間の目は誤魔化せません。
ヘタをすれば「陸軍省が瓦解するのではないか?」とすら思われた事件でした。
なお明治初期には長州閥の井上馨も【尾去沢銅山事件】を起こし、肥前藩の江藤新平から厳しい追及を受けております。
『西郷どん』でも大隈重信らと共に詰問する様子が描かれました。
征韓論、続発する士族の乱
山県という長州閥の政治家が辞任し、薩摩閥の西郷が近衛都督兼参議に――長州側としては納得できないものでした。
薩長の均衡が崩れ、薩摩に重きが置かれたような印象を、木戸孝允らは抱いたのです。

木戸孝允/国立国会図書館蔵
こうしたパワーバランスの均衡を保つ意味もあったのか。
山県の政界復帰は早いものでした。
明治6年(1873年)、初代陸軍卿に就任。
このころから、明治政府は領土問題への対応を迫られることとなります。
陸軍も、国内秩序維持から、外国に備える軍への改革が迫られました。
そして、明治政府は大きな問題に直面します。
【征韓論】です。
西郷隆盛を朝鮮に使節として派遣するかどうか?
山県は西郷とも親しかったにも関わらず、征韓論には積極的に関わろうとはしませんでした。このことで木戸との間も一時期遠ざかることになります。
実のところ、それどころではなかったのかもしれません。
当時の陸軍では、征韓論の影響で薩摩系の辞任が相次ぎ、しかも山県と少将・山田顕義の対立が激化。
木戸孝允すらこの対立を解消できず、山県ではなく西郷従道の方が陸軍を束ねる器なのでは?と一時期思ったほどです。それほど大変な状況でした。
それでも山県は参議と兼任。
明治7年(1874年)、明治政府の台湾出兵では、対清戦争の回避を主張しております。
台湾出兵は、宮古島の島民54人が殺害されたことをキッカケに明治政府が初めて国外へ軍を派遣した事件であり、目的の一つに「ガス抜き」があったとも見られます。
【佐賀の乱(1874年)】に続き、止まらない不平士族の反乱。
明治9年(1876年)には【神風連の乱】が起き、その後【秋月の乱】【萩の乱】へと続きます。
特に萩の乱では、同志であった前原一誠(まえばら いっせい)を攻めねばならない――山県にとって苦渋の決断は、その後も続きました。
明治10年(1877年)の【西南戦争】です。
あまりに苦い「西南戦争」
西南戦争――。
それは前原一誠を倒したばかりの山県にとって、あまりに非情な運命でした。
かつては志を同じくしていた西郷隆盛を討たねばならない。なぜそんな大事になってしまったのか。
西郷側にせよ、政府側にせよ。
ここまで大規模な戦乱になるとは、予想していなかった部分があります。その責任を桐野利秋に結びつけることもありますが、これも後世のこじつけと思われます。

人斬り半次郎こと桐野利秋/Wikipediaより引用
西郷らが決起する理由となった川路利良の密偵による西郷暗殺計画も、現在ではあったかどうか疑念も提示されています。
それに先んじて、西郷の私学校党が火薬庫を襲撃するという事件を起こしているのです。
何らかの不審行為、激怒させるようなことはあったのかもしれません。
しかし今日に至るまでハッキリしない部分も多い。
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いずれにせよ、鹿児島という火薬庫が爆(は)ぜてしまい、戦争になってしまったに変わりはありません。
西南戦争に関する作戦は閣議で決めることとなり、山県も参加。
参軍として先頭に立つこととなりました。
作戦の大綱はこうです。
・軍の指揮本拠地を大阪に置く
・士族兵の採用に極力反対、反乱士族の挙動を見張る
・陸海軍を素早く動かす
激闘となった【田原坂の戦い】でも山県は指揮を執りました。
このとき奮戦したのが、警視庁から選抜された【抜刀隊】。
敵軍に大打撃を与えながら、犠牲者も多数出しました。
この挙兵はあなたの意志ではないだろう
戦いの中、山県は連携にも苦労します。
特に戊辰戦争中に折り合いの悪かった黒田清隆に対しては、勝手な行動に怒りを募らせた模様。

黒田清隆/wikipediaより引用
西郷軍の強さに対しては、政府軍全体で怒りを募らせておりました。
戦場では、無残な遺体損壊の続発といった証言も残されています。
身内同士の、ムゴい戦いでした。
援軍がなければ西郷はもはやジリ貧。
苦戦を経て城山にまで西郷を追い詰めると、山県は使者に書状を託しました。
この挙兵はあなたの意志ではないだろう。
不平士族反乱は失敗続きだ。老練で名識を持つあなたならば、義名も立たず好機を逸していることはわかっていたはずだ。
あなたが育成していた壮士は、才気を欠いている。あなたの名望を以てしても、彼らを制することはできなかったであろう。
しかし、あなたは壮士を見捨てることはできなかったのだ。
一人だけ生き残ることはできず、持ち上げられてしまったのだろう。
両軍の死者は多い。これ以上、朋友同士で殺し合っても虚しいことではないか。
そちらの将兵は犠牲が多く、もはや逆転は望めないだろう。
この戦いがあなたの意志でないことはわかっている。あなたの決断で、両軍の犠牲者をこれ以上増やさないようにできるはずだ。
私たちは旧知の仲だ。私の気持ちをわかって欲しい。
あなたにこのことを強く願っている。
山県は、西郷に敬意を抱いていました。こんな形で敵対し、死なせてしまうのはあまりに惜しい。
しかし、願いは届きません。
首のない肥満した死体が発見されたという報告が、山県の元に届きます。
土にまみれた首も持ち込まれました。
水で洗うと、それは西郷のものでした。
なぜ、あれほどの英雄が、このような無念の最期を遂げたのか。
そう思うと、山県は涙を止めることができません。しかも戦争の最中、木戸孝允も病死しました。
山県にとって敬愛していた二人が、ほぼ時を同じくして世を去るのです。
山県は終結後、莫大な年金を受け取るようになりました。
それもあってか、大名の下屋敷を買い取り【椿山荘】と名付けて改築。傷心を癒したかったのかもしれません。
山県の造園趣味は、広く知られることとなりました。
その一方で、伊藤博文のような明るくパーッした芸者遊びは得意でなかったとか。
大酒は呑むけれども、色気はないという評もあったほど。
京都祇園に堀貞子、東京には吉田貞子という内縁の妻がおりましたが、伊藤らの激しすぎる女遊びと比較すると地味なものです。
陸軍から内閣へ
苦い西南戦争の後も、山県は陸軍で歩み続けます。
明治11年(1878年)、陸軍に参謀本部が独立して設置されると、近衛都督兼参謀本部長に転じ、明治12年(1879年)参謀本部長に専任されます。
明治15年(1882年)制定の「軍人勅諭」の制定にも参与しました。
朝鮮半島では、明治15年(1882年)の【壬午事変】、明治15年(1884年)の【甲申事変】にも対応。
これを遡る【明治十四年の政変】では、黒田清隆の【開拓使官有物払下げ事件】を厳しく批判しながらも、穏健に乗り切ります。
このあと国会開設の詔勅が発令されたことが、山県の転機となりました。
立憲制度調査のため、伊藤博文が欧州に派遣されたのです。

伊藤博文/国立国会図書館蔵
長州閥の一角として、山県は参事院議長の職に就きました。
軍職以外の行政で高い地位に就くのは初めてのこと。ここから先、山県は軍以外でも活躍を見せることになります。
明治16年(1873年)に内務卿へ就任。
明治18年(1875年)には、内閣制度のもとで内務大臣となりました。
そしてこのころ成立した華族制度では伯爵に。自由民権運動に対しては、殊のほか厳しい態度で臨みます。
イギリス王室の権威低下を危うんでいた山県にとって、こうした運動は国家の危機をもたらすものと思えた。知識がない下層民を惑わせ、騙して暴力を誘発させているものとみなしたのです。
用心深い性格のせいか。
山県は反対意見の取り締まりにも執念を見せ、憲兵を設置。
こうした民主化の芽を摘もうとした一面が、やや辛辣な後世の評価につながっているのかもしれません。
このころ山県は陸軍の刷新の必要性を感じていました。
フランス式からドイツ式へ変革を目指し、明治18年(1885年)にメッケルが来日。
ただし、青年期に達した明治天皇は意見が聞き入れられないと思ったのでしょうか、山県らに反発することもあったようです。
三浦梧楼らが山県に反発し、陸軍から去ってゆくこともありました。
政治家としての成熟期
明示も約20年を迎え、時代は立憲制度へ歩んでいきます。
山県が立憲制度のために必要だと考えたのは
・市制
・町村制
・郡制
・府県制
からなる地方制度でした。
ドイツを手本として実施しようとし、注力します。
明治21年(1888年)から明治22年(1889年)にかけて二度目となる渡欧を果たし、視察にあたります。
しかしこのときも山県は、議会制度や選挙に不信感を抱きます。
幕末から明治にかけて、欧州由来のこうした制度に感銘を受けた人物は多くいます。
しかし山県は、その慎重すぎる性格か、あるいは尊皇思想に浸かりきっていたせいか、どうしても信じることが出来なかったようです。
帰国直後、山県に驚くべき機会が巡ってきました。
条約改正問題を巡り、黒田清隆内閣が総辞職したのです。
そんな急な状況で山県が帰国を果たしたわけですから、渡りに船とはまさにこのこと。明治22年(1889年)12月、山県は恐れ多くも総理大臣に任ぜられました。
かくして第一次山県内閣が組織されました。長州閥の期待を受けた内閣となったのです。
実はこのとき、山県は伊藤より格下と周囲から見られており、自身も一度は断ろうとしています。
しかし、押し切られる形での組閣となり、スグに厳しい政治状況に直面することとなります。
山県内閣のもと、明治23年(1890年)に第一回衆議院総選挙実施され、第一回帝国議会が開会。
山県は、このとき記念すべき開会の冒頭施政方針演説を行います。
強力な陸海軍により、国家の独立を保つとともに、国の勢いを伸ばすべきだ――。
予算案を巡り激しい攻防があったものの、アジア初の議会は無事終了。
この内閣においては「教育勅語」の発布にも関与しております。ゆきすぎた西洋思考とのバランスを取るものでもあり、東洋の儒教的な道徳観が反映されています。
「教育勅語」にも良い面があるとして取り上げられる、【親孝行や兄弟仲良くしよう】という教えは、だいたいが儒教の教えと同じなのです。
そうした東洋的な美学と天皇への忠誠心を結びつけたことこそが本質なのです。
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またこの年には、二人目となる陸軍大将にも昇進を果たしております。
そして重責に耐え抜き、明治24年(1891年)、辞職。
このころ伊藤博文は対立勢力牽制のために政党結成を目指しますが、山県は乗らないどころか、阻止に回っています。
彼は不思議なもので、長州閥でありながら、木戸孝允、伊藤博文、井上馨らと必ずしも意見が合致するわけではなかったようです。
現実問題として政党政治や議会、選挙といった近代民主制政治に懐疑的な部分もあったのでしょう。
明治25年(1892年)の第二次伊藤内閣には、再三固辞したにも関わらず、法相として就任。
そして明治26年(1893年)、押しも押されもせぬ枢密院議長となりました。
軍人として、政治家として
この間も山県は、軍人としての矜持を持ち、軍備拡張を説き続けました。
彼は生涯に渡って軍備の拡張を主張しているのですが、慎重な性格ゆえのものでしょう。
拡張よりも国防――徳富蘇峰は、彼を「穏健な帝国主義者」と評しております。
明治27年(1894年)、日清戦争が勃発。
山県は自ら第一軍司令官として朝鮮半島を北上、安東県に到着すると、病のために召還させられてしまいます。
50歳を超えたころから、持病のリューマチ、歯痛、胸部の痛み、痔、胃痛等に苦しめられていたのです。
現地の厳しい気候は、こうした病身には辛いものでした。
帰国後は監軍となり、翌明治28年(1895年)、陸相に。日清戦争の功績により、爵位は侯爵まで進んでいます。
日清戦争の勝利は
・大量の賠償金
・台湾
という領土をもたらしました。
日本中が熱気に包まれます。
山県は朝鮮半島への影響力を増やすこと、軍備拡張を主張しました。
明治29年(1896年)、ニコライ2世の戴冠式に出席した山県は、ロシアと交渉に臨み、【山県・ロバノフ協定】を締結しています。
このロシア訪問でも体調を崩してしまい、苦労をしています。
山県は明治31年(1898年)、元帥となり、その後、第二次内閣を組閣しました。
勢力を伸ばしていた憲政党とは協力し、地租増徴、京釜鉄道敷設、選挙法改正などを実現。
明治33年(1891年)には辞職します。
この年「義和団の乱」が勃発。
にわかに日本とロシア間に緊張感が漂い始めます。
日英同盟の締結により、対立はさらに深刻化してゆくのでした。
元老として君臨し続ける
明治34年(1892年)の伊藤内閣が終わったあとは、元老として一線から退いております。
心境は複雑でした。
彼の嫌う政党の台頭。
明治天皇がみせる伊藤への篤い信任。

エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇/wikipediaより引用
どれも彼からすれば複雑なものでした。
後継者の桂太郎に任せ、その後援に回った山県。
伊藤共々一線を引いたかのように思えましたが、性格的にそうはいきません。世間も、これほどの人物を手放したがらないものです。
明治37年(1904年)から38年(1905年)にかけての日露戦争で、山県は参謀総長として総指揮を取り、時には強気に責め抜く不退転の決意を見せました。
戦後は、何かと困難が多かった講和の実現にも尽力したのです。
爵位はさらに伸びて、明治40年(1907年)公爵となりました。
そしてその影響力は一線を退いてからも健在です。
明治38年(1905年)から、死まで枢密院議長を勤めあげ、元老の中でもトップとして君臨しました。
その間、盟友であった伊藤博文が暗殺され、明治天皇も崩御。
体調不良に悩まされた虚弱体質の山県ですが、実際は、かなりの長寿を保つこととなります。
彼は己の信頼した部下を「山県閥」として支え続けました。
しかし、晩年にはこうした行動が藩閥政治の象徴として、攻撃対象となることもありました。
激動の近代史では、まだまだ事件は終わりません。
シーメンス事件、第一次世界大戦、宮中某重大事件、原敬暗殺未遂……という流れを経て、山県の晩年には様々な困難も起こりました。
皇太子(のちの昭和天皇)の婚約をめぐる「宮中某重大事件」においては完全敗北し、ついに謹慎の日々を送ることに……。
そして大正11年(1922年)2月1日没、享年85。
最期は眠るように穏やかなものでした。
★
幕末を生き延び、そして明治時代もトップに君臨し続けた、長州元勲の代表格。
家族や親友を戦乱の中で多数失ったことから、その性格には陰がつきまとい続けました。
だからこそ、一度信じた者のことは見捨てない――そんな一面があることも触れておきましょう。
用心深く、庭や和歌を愛する人柄も持ち合わせていた山県有朋。
同郷の伊藤博文と異なる個性は今なお燦然と輝かせています。
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【参考文献】
伊藤之雄『山県有朋―愚直な権力者の生涯 (文春新書)』(→amazon)
『国史大辞典』
















