ノルマントン号事件と不平等条約の改正

風刺雑誌『トバエ』に掲載されたノルマントン号事件の様子/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

不平等条約の改正(領事裁判権と関税自主権の回復)はどう進められたか?

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二度目の判決も、実質無罪みたいなもん!?

二回目の裁判では別の判事によって有罪判決になります。

ただ、それでも「禁錮3ヶ月」&「賠償金なし」という極めて軽いものでした。見ようによっては実質無罪ですね。

イギリスは歴史的に「犯罪者は片っ端から死刑にして殲滅していこうね! そのほうが明るい世の中になるよね!」(超略)という考え方で、スリのような軽犯罪まで死刑にしていた時代もあるくらいなのですが……。

ノルマントン号事件の頃には、死刑とされていた罪の一部がオーストラリアへの流刑に変更されたり、公開処刑も刑務所内処刑に変わったりしていました。

しかも禁錮は「労働を伴わず、決められた期間を刑務所で過ごす」という刑です。

現代では、別の意味で精神的苦痛があるとされますが、当時の状況と合わせて考えると、ノルマントン号の船長はボンヤリと刑務所内で過ごしていただけでしょう。

もしも今の法規に則れば、業務上過失致死罪は間違いないでしょうし、被害者数と「未必の故意」(実際に手を下してはいないが、結果がわかっていてそれを回避する行動をしない)からして、かなりの刑が課されるハズです。

この辺、法律関係の専門家の方におうかがいしたいところです。

いずれにせよ、このような事件に対する西洋諸国の言い分は、原則的に決まっておりました。

「日本はまだ憲法その他の近代的(=国際的に通じる)法律整備が進んでいないから」

 

日英通商航海条約で領事裁判権が撤廃される

たしかに幕末の日本は、外国人を追い払おう!という攘夷派も数多おり、実際に外国人襲撃事件も起きておりました。

各地の外国人居留地が治外法権になったのも、当時の外国人からすれば「外を自由に出歩いたらサムライに殺される! 法(と書いて武)の力で俺たちを守ってくれ!」という気持ちもあったのでしょう(同時に有色人種への蔑視感情もあったのでしょう)。

しかしノルマントン号事件で、不平等条約による被害者が出てしまうとなると、さすがに明治政府も黙っておれません。

ヘタをすれば国民の不信感が増大し、せっかく成立した政府の存在が揺るぎかねません。

彼らは一刻も早く法整備を進め、

「日本はきちんと法律が整備された安全な国になったので、何かあればきちんとサバけるようになりました(だから治外法権はいらないですよね^^)」

と言いたいところ。

そこで度重なる交渉の結果、1894年にイギリスと結ばれた【日英通商航海条約】によって、初めて日本における領事裁判権が撤廃されました。

当時の外務大臣は陸奥宗光ですが、むしろポイントとなるのは「1894年」という年でしょう。

陸奥宗光
カミソリ大臣・陸奥宗光が不平等条約を解消 クセ強めな53年の生涯

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イギリスとの条約交渉が始まったのは、清における【甲午農民戦争】前の(1894年4月)であり、【日清戦争】の開戦直前(1894年7月)に調印されました。

甲午農民戦争の際、日本は近場&他に戦争をしていないという理由から、清に最も多くの兵数を出していましたし、働きも悪くありませんでした。

イギリスから見て「コイツはアジアの中では使えそうだし、少し恩を売っといてやろう」みたいな感じだったと思われます。

詳しくは日清戦争の項目をご確認ください。流れをスッキリ整理しておきました。

日清戦争
日清戦争の攻防を一気読み~朝鮮半島がカオスとなった顛末を振り返る

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