日露戦争

戦艦三笠/Wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日露戦争になぜ勝てた?仁川沖海戦に始まりポーツマス条約をマトメるまで

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世界も驚いた日英同盟 ロシアも焦った?

『なぜ大英帝国が極東の小国と?』

日英同盟は、当時のヨーロッパ諸国に衝撃をもたらしました。そのためロシアも一時譲歩する姿勢(という名のフリ)を見せています。

具体的には「今すぐ満州から完全に撤退するのは難しいから、半年おきに三回に分けて撤兵する」と言ってきたのです、表向きは……。

しかし、実際にロシアがやったのは一回目の撤兵だけ。開戦までの時間稼ぎ&イギリスの出方を窺っていたのでしょう。

それでもなお、日本が圧倒的に不利な戦いになることは確実でした。

なにせ人口も国土も軍事費も装備も、全ての点において十倍以上の相手と戦わなければならないのです。

実質的な宣戦布告である「国交断絶状」を送ったのは日本からでしたが、当時の外務大臣・小村寿太郎が実にイイ性格(したたかさ)と度胸を併せ持っていたことが大きかったと思われます。

では、日露戦争では実際にどんな戦いがあったか?

いわゆる「203高地」や「日本海海戦」など著名な戦いが多々あり、いずれも綱渡りの連続なので、説明に少々行数を割かせていただきます。

一つずつ見ていきましょう。

 

仁川沖海戦から第一次日韓協約へ

まずは陸軍・海軍双方にとって作戦を進めやすい拠点の選定からです。

海軍が希望したのは釜山で、陸軍が大孤山。それでは片方にとって行軍の負担が大きくなるため、ほぼ中間地点の仁川が選ばれました。

既にここにもロシア軍がいたため、まずは仁川の確保に動きます。

たまたまこのときの仁川にはロシア船が二隻しかおらず、日本海軍は比較的すんなりと勝利を収めることができました。

これが【仁川沖海戦】です。

仁川沖海戦で炎上するロシア艦/Wikipediaより引用

そして後顧の憂いをなくすため、日本は大韓帝国と第一次日韓協約を結び、「今後は日本人顧問の許可なしに他国との連絡・同盟をしないこと」を確約させました。

事実上の保護国化ですが、そもそも大韓帝国が自力で国土を守れる力があれば、日本も朝鮮方面での懸念を持たなくて済んだわけですし……難しいものです。

海軍が緒戦で勝利を収め、プレッシャーのかかる陸軍。

まずは第一軍と第二軍の二つに分かれて、それぞれ別方面を担当します。

第一軍は仁川から上陸し、満州方面を目指しました。

そのためには鴨緑江を渡らなければなりません。現在は中国と北朝鮮の国境になっている川です。

鴨緑江の仮設橋を渡る第一軍/Wikipediaより引用

兵数と物量で圧倒的に有利なロシア軍相手に、正面から戦ったのではボロ負けするのが目に見えていたので、濃霧に紛れてロシア軍の側面に回りこみ、混乱させて勝利を収めました。

これが【鴨緑江の戦い】です。

 

露の機関銃で6,200名もの戦死者を出してしまう

日露戦争の緒戦は、海も陸も日本にとって幸先の良い結果となりました。

特に鴨緑江の戦いにおける勝利は欧米に高く評価され、当時、外債交渉中の高橋是清にとっても追い風となります。

要は戦争の資金調達であり、第三国からするとこういった外債はギャンブルに近いようなものであり、だからこそ緒戦の結果は重要でした。

そして陸軍の第二軍は、遼東半島の先端・旅順にいるロシア軍が満州方面へ向かうのを防ぐため、遼東半島南部の塩大澳から上陸しました。

しかし、その途中にある南山の要塞から機関銃で集中攻撃され、実に6,200名もの戦死者を出してしまいます。

この死者の中に、後述する旅順攻撃で有名な乃木希典の長男・勝典もいました。

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報告を受けた国内では「ケタ数を間違えてるんだよな? なぁ、そうだと言ってくれ」状態だったとか。そりゃそうですね。

地元の中国人から多少の情報も入っていたらしいのですが、なにせ日本軍が機関銃を配備した軍と戦うのは初めてだったので、その威力に実感が持てなかったのでしょう。

機関銃自体は、戊辰戦争の局地戦である北越戦争で河井継之助が使っていたので、日本にも全く知られていなかったはずはないのですが……。

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その頃のガトリング砲というタイプの機関銃はあまり大きな戦果を挙げられなかったため、ナメてかかったのでしょうか。

実は北越戦争には山県有朋や黒田清隆が参加していたのですけれども、維新の頃に比べて「機関銃が進化してヤバイものになった」とは思っていなかったのかもしれません。

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本当に、情報不足と慢心は最大の敵ですね。

ただ、ロシア軍も最初から弾薬を使いすぎて弾切れになり、日本軍の粘り勝ちになっています。

 

東郷平八郎の豪運・神業が炸裂!

第二軍は後続の第四軍(大孤山から上陸・進軍予定)・及び鴨緑江で勝利を収めた第一軍と合流して、満州へ進むことになります。

しかし、旅順をそのまま放置しておくわけにもいかないので、新たに第三軍が組織されました。

乃木が大将を務めた軍です。

一方、ロシアは楽勝できると踏んでいた日本相手に敗北が続いてイライラ。

最前線に急行できる旅順艦隊に「さっさと出港してウラジオストクへ向かえ!」と命令します。

旅順艦隊に出てこられると、日本にとっては非常にやっかいです。

そのため、海軍は急遽これを迎え撃とうとしました。

が、参謀・秋山真之が考案・実行した「丁字戦法」が形にこだわりすぎて大失敗し、一時、旅順艦隊を逃してしまいます。

すると戦艦・三笠の艦長だった東郷平八郎がメインマストの倒壊覚悟で全速力の追撃。

奇跡的に追いつくと、その状態で放った砲撃が旅順艦隊の旗艦・司令室に二発も大当たりし、指揮能力が一瞬にして消滅するのです。

東郷が推薦されたとき、運の良さを買われたという話がありますが、三笠や船員の豪運と技術もスゴイですよね。艦長が豪運だと周囲にも伝播するのですかね。

戦艦三笠/Wikipediaより引用

突然司令が届かなくなった旅順艦隊は戦闘不能に陥り、四方八方へ逃げていきました。

しかし、この時点ではまだ日本軍の知るところではなかったため、この後もしばらく旅順艦隊を警戒することになります。生霊みたいです。

ロシアには旅順艦隊の失敗が伝わったため、バルチック艦隊に「超長距離航路になってでも日本へ行け!」と厳命が下りました。

日本としては旅順艦隊(もういないけど)とバルチック艦隊の挟み撃ちになっては勝ち目がないので、一日でも早く旅順封鎖を徹底しなければなりません。

そこで海軍のほうから、陸軍に「旅順攻略を早めてくれ」と要請が飛びます。

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