日露戦争

戦艦三笠/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日露戦争なぜ勝てた? 仁川沖海戦に始まり講和条約が締結されるまで

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旅順の攻略がポイント

日露戦争ではこの「旅順」という地名が何回も出てくるので紛らわしいところですね。

見分けるには2つに分け、それぞれのキーワードを把握しておくのが良さそうです。

作戦キーワード時期
旅順閉塞作戦失敗・海軍2月~5月(日露戦争前半)
旅順攻囲戦成功・203高地・陸軍8月~1月(日露戦争後半)

陸軍としては、「旅順は攻略対象というより足止めする場所」と認識していたので、海軍からの要請に対し、一時困惑したようです。

これまでにも海軍が1904年2月~5月にかけて旅順閉塞作戦を行っており、全て失敗していたというのも理由だったでしょう。

ちなみに、3月の第二次作戦は軍神・広瀬武夫少佐とその部下・杉野孫七のエピソードで有名でです。詳しくは以下の記事を。

広瀬武夫
近代初の軍神・広瀬武夫「旅順港閉塞作戦」で劇的な戦死を遂げる

続きを見る

元々、旅順は清のものだった頃から軍港として使われていた場所で、ロシア軍が来てからはさらに防備を固めていました。

南山で要塞+近代兵器の恐ろしさを知ったはずの日本軍なのですが、あろうことかここでも正面攻撃を繰り返します。

司馬遼太郎『坂の上の雲』で乃木たち第三軍がボロクソにいわれているのはこの辺が原因です。

しかし当時は、要塞の攻略法など確立していない時代なので、他にやり方が思いつかなかったのは仕方がない面もあります。

厳しい見方をするとしたら、古い時代の攻城戦なり、南山での教訓は活かしてしかるべきかもしれません。

旅順要塞の攻略/Wikipediaより引用

当時の価値観に沿わせるとすれば「戦国時代の攻城戦ですら城側が有利なのに、西洋の最新技術を投じて作られた要塞を正面突破できるわけがない」と考えても良かった気はしますね。

大将である乃木も、参謀だった伊地知幸介も真面目過ぎたのでしょう。

といっても、何の工夫もしていなかったわけではありません。

幕末に日本沿岸防衛のために作られた東京湾要塞などから、旧式の大砲を旅順まで送って使ったり、周りの山に坑道を掘って攻め込む方法を試したり、いろいろやっています。

どれも最終的な成功にはなりませんでしたが、当時の陸軍に視野と記憶力が全くなかったら、こういうことはできないはずです。

 

ロシア海軍のバルチック艦隊がやっちまったな!

本来は旅順攻略によって旅順艦隊を封じてほしかった海軍も、陸軍の被害の大きさと膠着状態に危機感を強めていきました。

そこで「要塞の背後にある203高地をぶん捕り、そこから射撃・砲撃によって旅順艦隊を無力化しては?」という提案が出てきます。

「旅順艦隊の殲滅」を第一にしていた海軍からすれば、良い作戦に見えたでしょう。

しかし、陸軍からすると「背後を取るにしてももっといい場所があるし、旅順艦隊を行動不能にできたとしても、やっぱり要塞本体を攻略しないとどうしようもないよね」というところ。

「海軍は、まだ来ていないバルチック艦隊にビビりすぎ」とも思えたようです。

なんでかというと、これより少し前に例のロシア海軍最大の大ポカ・ドッガーバンク事件が起きており、被害者であるイギリスがマジギレしていたからです。

ドッガーバンク事件でバルチック艦隊に大ダメージ 戦争にどれだけ影響した?

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当時七つの海を支配していたイギリスにかかれば、周辺国を脅し……もとい協力させてバルチック艦隊の補給線を断つなんて、そう時間のかかることではありません。ロシアの南下政策はどこの国にとっても嬉しくないことなのですから。

こうしてバルチック艦隊は石炭不足や士気低下に悩まされるようになります。

細かいことは知らなかったにせよ、日本はドッガーバンク事件に対してすぐ弔辞を送っていますし、同盟国のブチ切れっぷりを合わせて考えれば、この事件の重大さや、バルチック艦隊のコンディションの悪さが想定できてもいいはずです。

海軍は、よほど黄海海戦でのギリギリっぷりがトラウマになっていたんですね。

また、同時に日本国内では「乃木に旅順攻略なんてできない、更迭しろ!」という意見が強まっていました。

しかし、乃木の更迭は明治天皇の大反対で取りやめになっています。なぜなら、乃木の日頃の言動からして、ここで更迭したら自決を選ぶだろうことがわかっていたからです。

維新の頃からさまざまな政治の思惑に利用されてきた明治天皇にとって、乃木のような真に忠実・かつ実直な軍人を死に追いやることなどできなかったのでしょう。

日頃の明治天皇は私的な意見にこだわることはほとんどありませんでしたが、乃木の更迭反対だけは徹底しています。

明治天皇
明治天皇の功績&エピソードまとめ~現代皇室の礎を築いたお人柄とは

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203高地は戦略的価値がなかった!?

そこで、乃木のメンツを保ちつつ戦局打開を図るため、児玉源太郎が派遣されました。

旅順陥落がその数日後のため、

「児玉が来てからあっという間に旅順が陥落した」

「児玉のおかげで旅順は攻略できた。乃木と伊地知は完全な無能だった」

とする意見が根強いですよね。

しかし、児玉が来た頃には既に作戦が決まっていたという説もあります。

児玉源太郎
謙虚だった天才・児玉源太郎~日露戦争の勝利は彼の貢献度が大きい?

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なんだかんだで203高地攻略は行われ、第三軍がもぎ取りました。

ちなみに現代では、同地は戦略的価値がほとんどなかったとみなされています。

ここで乃木の次男・保典もまた戦死しているのが実にやるせないところ。

乃木希典/wikipediaより引用

乃木から見れば「海軍の要求に応えて203高地を取ったのに、戦況には大してメリットがなく、長男も次男も死んだ上、自分は無能呼ばわりされた」のですから、心痛にも程がありますね。

それでも帰国後は明治天皇にお詫びして自決を申し出て止められ、明治天皇崩御の際は殉死しており、本当に「忠臣」以外の形容が見当たりません。

旅順で第三軍の死者が多数に上ったこと等を含めて、彼の評価は分かれるところかもしれませんが、厚い人望が作戦を成功に導いたことは否定できないハズです。

 

37万vs25万 史上稀に見るレベルの大会戦「奉天会戦」

こうして、旅順攻略は多くの犠牲の上に終わりました。

遼東半島周辺の脅威がなくなったおかげで、陸軍は奉天のロシア陸軍本隊、海軍はバルチック艦隊に全力を注ぐことができるようになります。

順番としては【奉天会戦】が先です。

少しずつ有利な状況を作ってきた日本軍でしたが、この時点でも奉天のロシア陸軍は37万もおりました。

対する日本陸軍は、第一~第四軍まで合わせても25万ほど。

確実な記録に残っている中では、史上稀に見るレベルの大会戦です。

ちなみに「会戦」とは、大規模な陸上戦のことをいいます。

「会戦」がつく有名なものだとナポレオン戦争中の「三帝会戦(アウステルリッツの戦い)」がありますが、これでも7万vs8万5000ほど。

「会戦」とはついていないものまで含めても、奉天会戦の規模を上回るのは第二次世界大戦のレニングラード包囲戦(72万vs93万)やスターリングラード攻防戦(104万vs170万)くらいではないでしょうか。

レニングラード包囲戦
死者100万人のレニングラード包囲戦『レーナの日記』著者は16才少女

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スターリングラード攻防戦で死者200万人なぜヒトラーはナポレオンの二の舞を?

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大規模なイメージのあるノルマンディー上陸作戦も、12万vs11万ですし。(漏れがあったらスイマセン)

ともかく、奉天会戦もまた、列強に入りかけの日本にとっては空前絶後の戦いでした。

奉天会戦で後退するロシア軍/Wikipediaより引用

そしてここで日清戦争のときと似たような事が起きます。

ロシア軍の司令官であるクロパトキンが、なぜか我先にと撤退してしまったのです。

言い訳は「戦略的撤退」でした。

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