明治天皇

明治天皇/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

明治天皇の功績&エピソードまとめ~現代皇室の礎を築いたお人柄とは

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明治維新とは西洋化なども含めた制度改革

これら一連の制度改正や、西洋化などをまとめて「明治維新」といいます。

当時や近い時代には「御一新」ともいわれていました。

何よりも強くアピールされたのは

「これからは天皇が政治を行う」

「日本は天皇が中心になって強くなるんだ」

ということです。

それに伴って、明治天皇や宮中も大きく変化しました。

特に、武術については専門の師匠がついています。

江戸時代には「武術に興味を持って稽古をしていた」というだけで、幕府から咎められた後光明天皇という方もいたのですから、この一点だけでもかなりの変化です。

まあ、後光明天皇は黙って幕府の言うことを聞くような人ではなかったんですけども。詳しくは関連記事をご覧ください。

後光明天皇
江戸幕府を相手に一歩も引かず!後光明天皇の豪快痛快エピソード

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武術の稽古は、明治天皇の体力づくりにも繋がりました。20歳頃の写真と、それ以降の肖像画などを見比べると、だいぶ体格が変わったことがわかります。

1890年に撮影された明治天皇/wikipediaより引用

目元は変わっていないので、同一人物らしさも残っていますが。

 

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外国要人との会談が重要な仕事だった

戊辰戦争が終わってからの明治天皇には、さらに新しい仕事が増えていきます。

中でも大きかったのは、外国からの要人と会談を行うことでした。

特に、明治十二年(1879年)に来日した前アメリカ大統領ユリシーズ・グラントからは、国際的に認められるための助言を多々受けた、といわれています。

グラントは南北戦争の英雄でもありますので、生まれ育ちはともかく、明治天皇とは似通った経緯を経てきています。その辺に共感できたのでしょうか。

意外かもしれませんが、明治天皇は当初、武術や学問についての関心はあっても、政務にはあまり熱心ではなかったそうです。

そのため、ヨーロッパ歴訪で西洋の君主を見てきた伊藤博文とは、衝突することも多かったとか。

伊藤博文に対しては、女好きが余りに目に余るため、天皇が咎めたこともあったほどですが、その詳細は以下の記事にお譲りすることとして。

女好きがもはや異常レベルの伊藤博文~女を掃いて捨てる箒と呼ばれ

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伊藤は明治十九年(1886年)に「機務六箇条」を制定。

この中で「これこれの場合には天皇自身が政務に参加すること」などを明文化しました。

そのうち明治天皇自身にも、政務への責任や関心が強まり、内閣への臨御も増えていきます。

特に、大日本帝国憲法や皇室典範などの審議の際は、ほとんど全ての会議に参加していたとか。会議後に伊藤らを呼んで、説明を求めることも珍しくなくなりました。

神事については「伝統を守り続けること」は重視していましたが、自らが行うかどうかはあまりこだわっていなかったようです。

特に後半生では、ほとんど代参で済ませた行事もあります。

これはただ単にサボりたかったわけではなく、神事のためのお清めが体の負担になったことなどから、不手際を防ぐ目的だったようです。

 

大日本帝国憲法により立場が明文化される

明治二十二年には、大日本帝国憲法が発布されたことにより、天皇の立場が明文化されました。

簡単にいうと「天皇の立場は神聖不可侵である代わりに、多くの権力と義務を負う」ことが記されています。

一方、明治天皇は、憲法制定までが自身の政治的な仕事だと考えていたフシがあります。

明治二十年代後半からは、あまり内閣に臨席しなくなっているからです。

ときには人事などに難色を示すこともありましたが、明治天皇が内閣や近臣の意見をねじ曲げるようなことは、ほぼありませんでした。

この姿勢は、大正天皇や昭和天皇も引き継いでいます。

数少ない例外は、日清戦争のときでした。

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明治天皇はこのとき、伊勢神宮孝明天皇陵への勅使派遣を拒否し、宮中三殿での奉告祭にも出席しなかったといわれています。

これは全て、明治天皇にとって「祖先への報告」を意味することです。

つまり、明治天皇は「この戦争は不本意なものだから、堂々とご先祖様に報告する気になれない」と思っていたことになります。

勅使派遣は後に行っていますが、対外戦争に対する明治天皇の考えが伝わってきますね。

それでも仕事は仕事と割り切ったのか、兵や国民への示しをつけるためか、広島に大本営が設置されたときはしばらく滞在し、政務・軍務を行いました。

 

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どこの国とも仲良くたいのになぜ争いが起きるのか

日露戦争開戦前にも、こんな歌を詠まれています。

「四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」

昭和天皇が第二次世界大戦時に口ずさんだことでも有名ですね。

歌の意味としては「四方の海はきょうだいのようなものなのに、なぜ波や風が騒ぐのだろう」というものです。

状況と合わせて考えれば、歌意はこんな感じでしょうか。

「どこの国とも仲良くしたいと思っているのに、なぜ争いが起こるのだろうか」

皮肉にも、日露戦争での勝利により、日本は欧米列強に国力を証明することになりました。

ただし、その背景にはイギリスの意図に従わざるを得なかった政府もあったと思われ、手放しで喜べることでもないんですけどね……。

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明治天皇が政務や神事よりも熱心に行ったのは、国民の模範となることだったかもしれません。

肉食や洋装・断髪など、生活における洋風化が急速に進んだのは、明治天皇の生活に庶民が倣っていったことが非常に大きく関係しています。

こうしたものの普及について語るとき、まず真っ先に明治天皇の名前が出てきますからね。

この時代に西洋化が進んだことが、良かったのか悪かったのか……この後から今日までの歴史を見ていくと、どちらとも言いきれないところがあります。

「和魂洋才」「和洋折衷」といった言葉もありますし、日本の良さや一線を保ちつつ、未来へ向かっていくことができればいいのですが。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「明治天皇」等
米田雄介『令和新修 歴代天皇・年号事典』(→amazon
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon
明治天皇/wikipedia
明治天皇紀/wikipedia

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