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【明治天皇】
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大日本帝国憲法により立場が明文化される
明治二十二年には、大日本帝国憲法が発布されたことにより、天皇の立場が明文化されました。
簡単にいうと「天皇の立場は神聖不可侵である代わりに、多くの権力と義務を負う」ことが記されています。
一方、明治天皇は、憲法制定までが自身の政治的な仕事だと考えていたフシがあります。
明治二十年代後半からは、あまり内閣に臨席しなくなっているからです。
ときには人事などに難色を示すこともありましたが、明治天皇が内閣や近臣の意見をねじ曲げるようなことは、ほぼありませんでした。
この姿勢は、大正天皇や昭和天皇も引き継いでいます。
数少ない例外は、日清戦争のときでした。
明治天皇はこのとき、伊勢神宮や孝明天皇陵への勅使派遣を拒否し、宮中三殿での奉告祭にも出席しなかったといわれています。
これは全て、明治天皇にとって「祖先への報告」を意味することです。
つまり、明治天皇は「この戦争は不本意なものだから、堂々とご先祖様に報告する気になれない」と思っていたことになります。
勅使派遣は後に行っていますが、対外戦争に対する明治天皇の考えが伝わってきますね。
それでも仕事は仕事と割り切ったのか、兵や国民への示しをつけるためか、広島に大本営が設置されたときはしばらく滞在し、政務・軍務を行いました。
どこの国とも仲良くたいのになぜ争いが起きるのか
日露戦争開戦前にも、こんな歌を詠まれています。
「四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」
昭和天皇が第二次世界大戦時に口ずさんだことでも有名ですね。
歌の意味としては「四方の海はきょうだいのようなものなのに、なぜ波や風が騒ぐのだろう」というものです。
状況と合わせて考えれば、歌意はこんな感じでしょうか。
「どこの国とも仲良くしたいと思っているのに、なぜ争いが起こるのだろうか」
皮肉にも、日露戦争での勝利により、日本は欧米列強に国力を証明することになりました。
ただし、その背景にはイギリスの意図に従わざるを得なかった政府もあったと思われ、手放しで喜べることでもないんですけどね……。
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明治天皇が政務や神事よりも熱心に行ったのは、国民の模範となることだったかもしれません。
肉食や洋装・断髪など、生活における洋風化が急速に進んだのは、明治天皇の生活に庶民が倣っていったことが非常に大きく関係しています。
こうしたものの普及について語るとき、まず真っ先に明治天皇の名前が出てきますからね。
この時代に西洋化が進んだことが、良かったのか悪かったのか……この後から今日までの歴史を見ていくと、どちらとも言いきれないところがあります。
「和魂洋才」「和洋折衷」といった言葉もありますし、日本の良さや一線を保ちつつ、未来へ向かっていくことができればいいのですが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「明治天皇」等
米田雄介『令和新修 歴代天皇・年号事典』(→amazon)
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
明治天皇/wikipedia
明治天皇紀/wikipedia