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【明治天皇】
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戊辰戦争が終わらないうちに次々出される新政策
ここからがきな臭くなってくるポイントなのですが……。
この状況で慶喜の命令を聞くからには、当然みんな幕府に対する忠誠心が非常に高いわけです。
慶喜もいったんは戦争を煽り、鳥羽・伏見の戦いへ。
しかし、いざ戦争が始まると、徳川慶喜は急に怖じ気付き、妾を連れて江戸へ帰ってしまうという大失態を演じます。
そしてドロ沼の戊辰戦争へ……。
この戦争、あたかも「幕府が反抗したから」という印象もありますが、それはあくまで勝者からの視点。
当時の薩摩藩首脳や岩倉具視は国力を損耗するような戦いは愚策とし、反対しております。
なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めた?岩倉や薩摩は下策としていたのに
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しかし、西郷や大久保らの武闘派からすれば、戊辰戦争は願ったりかなったり。
装備や戦略では幕府軍が有利な点もあったのですが、次第に新政府軍のほうが有利になっていきます。
そしてこの戦が終わらないうちから、明治天皇と新政府は新しい時代のためにアレコレと新政策を始めました。
箇条書きするだけでもこんなにあります。
戊辰戦争が終わると、さらにどんどん増えるため受験生の皆様は大変です。
「一世一元の詔」とは、天皇一代につき元号一つという取り決めのことであり、1868年の今日10月23日、明治へと変わっています(旧暦で慶応4年9月8日)。
明治維新とは西洋化なども含めた制度改革
これら一連の制度改正や、西洋化などをまとめて「明治維新」といいます。
当時や近い時代には「御一新」ともいわれていました。
何よりも強くアピールされたのは
「これからは天皇が政治を行う」
「日本は天皇が中心になって強くなるんだ」
ということです。
それに伴って、明治天皇や宮中も大きく変化しました。
特に、武術については専門の師匠がついています。
江戸時代には「武術に興味を持って稽古をしていた」というだけで、幕府から咎められた後光明天皇という方もいたのですから、この一点だけでもかなりの変化です。
まあ、後光明天皇は黙って幕府の言うことを聞くような人ではなかったんですけども……詳しくは以下の関連記事をご覧ください。
江戸幕府を相手に一歩も引かず!後光明天皇の豪快痛快エピソード
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武術の稽古は、明治天皇の体力づくりにも繋がりました。
20歳頃の写真と、それ以降の肖像画などを見比べると、だいぶ体格が変わったことがわかります。
目元は変わっていないので、同一人物らしさも残っていますが。
外国要人との会談が重要な仕事だった
戊辰戦争が終わってからの明治天皇には、さらに新しい仕事が増えていきます。
中でも大きかったのは、外国からの要人と会談を行うことでした。
特に、明治十二年(1879年)に来日した前アメリカ大統領ユリシーズ・グラントからは、国際的に認められるための助言を多々受けた、といわれています。
グラントは南北戦争の英雄でもありますので、生まれ育ちはともかく、明治天皇とは似通った経緯を経てきています。その辺に共感できたのでしょうか。
意外かもしれませんが、明治天皇は当初、武術や学問についての関心はあっても、政務にはあまり熱心ではなかったそうです。
そのため、ヨーロッパ歴訪で西洋の君主を見てきた伊藤博文とは、衝突することも多かったとか。
伊藤博文に対しては、女好きが余りに目に余るため、天皇が咎めたこともあったほどですが、その詳細は以下の記事にお譲りすることとして。
女好きがもはや異常レベルの伊藤博文~女を掃いて捨てる箒と呼ばれ
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伊藤は明治十九年(1886年)に「機務六箇条」を制定。
この中で「これこれの場合には天皇自身が政務に参加すること」などを明文化しました。
そのうち明治天皇自身にも、政務への責任や関心が強まり、内閣への臨御も増えていきます。
特に、大日本帝国憲法や皇室典範などの審議の際は、ほとんど全ての会議に参加していたとか。会議後に伊藤らを呼んで、説明を求めることも珍しくなくなりました。
神事については「伝統を守り続けること」は重視していましたが、自らが行うかどうかはあまりこだわっていなかったようです。
特に後半生では、ほとんど代参で済ませた行事もあります。
これはただ単にサボりたかったわけではなく、神事のためのお清めが体の負担になったことなどから、不手際を防ぐ目的だったようです。
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