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【小篠綾子(コシノアヤコ)】
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母の背中と、恋と
昭和20年(1945年)、戦争が終わり新たな時代が到来しました。
三姉妹は成長しましたが、綾子は育児よりも仕事命でした。
授業参観にもろくに出ることなく、娘が気を引こうとするとこれみよがしに布地を裁断する、そんな母親であったのです。
綾子は娘たちにお稽古をさせました。花嫁修業でも何でもありません。
要するに、娘をなるべく家に置きたくなかったのです。
娘を追い出して、ともかく仕事をしたかったのでした。
そんな綾子も、仕事以外の趣味が出来ました。
社交ダンスです。
夜にならいに行くと、寝ている娘を起こしてダンスの振付を見せ始めたのです。
それだけではなく、綾子はなんと恋に落ちていたのでした。
思えば仕事一筋、周囲から言われるままに結婚し、その結婚もわずか数年で夫とは死別。
30を過ぎたばかりの綾子が恋の炎を燃やしたとて、誰が責められましょうか。
しかし……世間的には問題がありました。
相手は妻子ある身だったのです。
別宅を借り、堂々と交際する綾子とその男性に周囲は呆れました。
「私は間違ってへん!」
そう宣言する綾子ですが、周囲は許しません。
あるとき、よってたかって、彼女を糾弾したのです。
「あんたなあ、ええ加減にせえや。子供に気の毒やと思わへんの!」
しかし、ここでその娘たちは泣きながらこう言いました。
「私らええねん! これでかまへん」
子供に泣かれては大人も困るわけで、大人は退散しました。
娘としてはそりゃ複雑なのです。
たまに交際相手といる母を見ると、それまで見たことがないほど幸福そうな、花が咲いたような笑顔でいるのです。
おかあちゃんは、幸せなんやな……そう思ったわけですね。
コシノ姉妹の躍進
三人娘が全員デザイナーになった――。
さぞや英才教育を施したのだろうと思われがちですが、実はそうではありません。
そのことは、今までの記述からもおわかりでしょう。
しかし三姉妹の長女・弘子が高校を卒業した時、綾子は突如、進路に口を出しました。
美大志願に強く反対したのです。
頑固な母に逆らえず、弘子は受験を失敗します。
くすぶっている弘子に、綾子はこう勧めます。
「ドレメ(ドレスメーカー学院)行ったらええんちゃう?」
ハメられた!
弘子は悟りましたが、とりあえず通うほかありません。
しかし他の生徒は花嫁修業の一環として通っているようなもので、弘子は物足りない。
一年後、文化服装学院への進学を希望すると、今度はあっさり、綾子は許します。
「おかあちゃんみたいには、絶対ならへんからな!」
そうツッパッていたはずの弘子ですが、あれよあれよと、デザイナーの道へ。
しかも才能がとびきりありました。
そんな姉の姿を見て対抗心を燃やしたのが、妹の順子です。
コシノ姉妹の上二人は、実は幼い頃からライバルで、何かあるごとに喧嘩していたのです。
そんな妹が、デザイナーの道を歩む姉への対抗心を燃やさないわけがありません。
順子は、文化服装学院への進学という、姉と同じ道を歩みます。
2年の基礎コースを1年で終えるという猛烈な学びぶりで、新人デザイナーの登龍門「装苑賞」を最年少の19歳で受賞するのです。
弘子は、2位どまりでした。
綾子に呼ばれて岸和田に戻っていた弘子は、複雑な気持ちで妹の報告を聞きました。
ここで順子は、意外なことを言い出します。
「あのな、銀座小松ストアーの仕事受けたんやけどな。お姉ちゃんと一緒やないとあかんて言ったんや」
こうして火花を散らしていた姉妹は、東京で共に仕事をするようになったのです。
その4年後、弘子は綾子からまた大阪に呼び戻されました。
大阪の一等地である心斎橋に「洋裁店を開いたらどうや」と持ちかけてきたのです。
綾子の奔走の甲斐もあって、昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年に『クチュールコシノヒロコ』が開店。
その2年後には、順子が銀座に『COLETTE』を開き、ファッションがめまぐるしく替わる1960年代、その嵐の中心でコシノ姉妹が燦然と輝き始めるのでした。
末っ子もロンドンへ
三姉妹でも歳の離れた美智子は、おっとりとしていてマイペースでした。
子供の頃からテニスに打ち込み、着る物にはまるで無頓着。
しかし運動神経はバツグンで、学生時代には全国大会で優勝します。
この美智子がまた底知れぬ女性で。
高校卒業後に実家を手伝い始め、その後、結婚→離婚で再び家に戻ると、突如こう言いだし周囲を驚かせるのです。
「うち、ロンドンに行く!」
彼女は、姉二人のようにみっちりとデザインの基礎を学んだわけでもありません。
にもかかわらず1973年(昭和48年)にロンドンへ。
無邪気な末っ子ならではのパワーというやつでしょうか。
綾子から渡された金を使い果たしす等、様々な荒波を乗り越えながら、美智子もまた持ち前のマイペースと精神力で乗り切り、デザイナーとして一人立ちするのです。
こうして三人姉妹は、全員がデザイナーとなったのでした。
古希を過ぎてデザイナーに
そんな三姉妹のショーを誰よりも熱心に見ていたのが、母の綾子でした。
作家の藤本義一からこう言われます。
「コシノ三姉妹じゃなく、四姉妹やね」
綾子の中で何かが燃え上がったのでしょう。
なんと1988年(昭和63年)、74歳で「アヤコ・コシノ」ブランドを創設したのです。
しかも、娘たちのものをまんまパクったデザインまであるではないですか。
「おかあちゃん、これうちのデザインと同じやん」
「あんたら生んだのはおかあちゃんやねんから、どれもおかあちゃんの作品や」
すごい理屈ではあるのですが、これには娘たちも苦笑するほかありません。
エネルギッシュな綾子はタレントの才能もあったのか、テレビ出演することもありました。
88才の歳には、宝塚の病院でファッションショーを開催したこともあるほどです。
歩けなくなってからも人力車でファッションショーに登場する等、どこまでもエネルギッシュな女性でした。
娘から「そろそろ隠退したら?」と言われたとき、綾子はこう返ししました。
「うちのこと、殺す気か!」
休むことは、考えられない人生。
2006年(平成18年)に永眠するまで、彼女はデザイナーとして生き続けました。
享年92。
「さあ、人生これからやで!」
それが綾子の口癖でした。
★
生前、綾子は朝ドラマを見てこう言っていました。
「わたしもこんなん出たいわぁ」
その願いは叶います。
2011年朝の連続テレビ小説『カーネーション』。
彼女のエネルギッシュな人生は、日本中に活力を届けたのでした。
文:小檜山青
【参考文献】
コシノヒロコ『だんじり母ちゃんとあかんたれヒロコ』(→amazon)
コシノジュンコ『人生、これからや!』(→amazon)
【TOP画像】
『だんじり母ちゃんとあかんたれヒロコ』(→amazon)