大河ドラマ『どうする家康』第10回放送で、驚きの設定が物議を醸しました。
徳川家康が側室にしていた“お葉”が「側室をやめたい」と言い出したかと思ったら、その理由が、同じく城勤めをしていた「別の侍女を好きになったから」というものだったのです。
突然出てきたお葉が突然「同性愛」の告白――とにかく唐突すぎる展開に、驚かれた視聴者も少なくなかったのでしょう。
その状況は早速メディアでも取り上げられ、「雑な同性愛描写」と指摘されると、
◆「どうする家康」お葉の設定は必要だった? 今期ドラマで急に増えた“雑な同性愛描写”への違和感(→link)
さらには「あのシーンは必要だったのか?」と話題になりました。
大河ドラマにおける同性愛といえば、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における源実朝が記憶に新しいでしょう。
あの表現は、実に巧みでした。
実朝には「世継ができない」という史実をもとにした前提があり、それが「跡継ぎの座を巡るいざこざから甥の公暁を凶行に走らせる」ストーリー展開に重要な役割を果たしたのです。
では『どうする家康』の場合はどうか?
というと、とにかく唐突すぎて、実朝のような必然性が全く感じられないからこそ、放送後に騒然となったのでしょう。
あるいは「男性の同性愛」と「女性の同性愛」といった性差も影響しているかもしれません。
そこで考えてみたいことがあります。
女性の同性愛は、日本史においてどんな扱いをされてきたか?
日本史の場合、男性同士の関係はよく知られますが、女性同士というのはあまり見かけません。
その歴史を振り返ってみましょう。
男女における同性愛の違い
男性同士の同性愛と、女性同士の同性愛。
一見、同様の関係に見えますが、現代でも社会的には数多の差があり、同条件で一緒くたにするのは問題があるとされます。
たとえば賃金格差。
同じ同性愛カップルにせよ、男性同士ならば収入が高くなる傾向が強く、パワーカップルになりやすい。女性の場合は、その逆となります。
女性でのみ構成される家族は、防犯といった面でも不利になることがあり、女性差別も考慮せねばなりません。
では歴史的にはどうか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、歩き巫女が源実朝に対し、平易なセリフで暗に匂わせていました。
「お前の悩みはどんなものであってもそれはお前一人の悩みではない。遥か昔から、同じことで悩んできた者がいることを忘れるな」
昔から同性愛者はいる――そう普遍的に示した内容であり、感動的だと評されたものです。
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一方で『どうする家康』はどうか?
お葉のような女性もいたはずだ――。
それは当然そうなのですが、問題は、その認知の仕方ではないでしょうか。
歴史的に、性愛についての語り手は、圧倒的に男性が多数を占め、その記録も残されてきました。
政治の中心にいたからです。
『鎌倉殿の13人』でも、劇中で必要がないため割愛されただけで、後白河院のように両性愛を嗜んでいた人物がおります。
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人々の生きた記録は、性生活も含めて権力が上になればなるほど残りやすく、男性主体の同性愛も史料に残されてきた。
ゆえに男性の同性愛は古くから認識されてきました。
一方、女性はそうではない。
彼女らの同性愛は権力がないゆえ認識されにくく、記録にも残りにくい。
女性同士の同性愛は「あってもなくてもよいもの」として、長らく透明な存在でした。
子ができるわけでもない。男性同士のように暴力的な殺傷事件が頻繁に起こることもありません。
放置しても問題ないため、記録にも残らないのです。
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女性が女性を賛美することはあったが
2024年大河ドラマは『光る君へ』となります。
女性同士の感情という点では『どうする家康』より、はるかに重要なシーンが数多く描かれるでしょう。
主人公である紫式部は宮仕えをする女性であり、そこには多くの同性がおりました。
紫式部は女房たちの容姿や性格まで、細やかに書き留めています。
ライバルとされる清少納言は、主君である中宮定子を情熱的に称賛していた。
嗚呼、こんなに素晴らしい女性が存在するなんて……と、『枕草子』で絶賛する動機や背景は、さまざまな解釈がなされています。
仕える者が主君を褒め、去り行く栄光を回想する――。
そんな描写から飛躍して、現代では「百合(女性同性愛)」としてパロディにした作品もあります。
それほどまでに彼女たちが情熱的だったのは確かであり、そこに性愛を認識すれば、自然とそうした作品になったのでしょう。
平安時代の貴族たちはしばしば、細やかな出来事を日記に残しました。
儀式の次第等、さまざまな手順を後世に残すことが重要だったからであり、そうした記述の中に、男性同士の同性愛がしばしば登場します。
後白河院の同性愛は、九条兼実が皮肉げに記したことからわかります。
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こうした記述で最も有名なのは、“悪左府”の異名で知られる藤原頼長でしょう。
頼長自身が記録に残したばかりでなく、ストーキングのような求愛を受けた相手までもが記述していたのですから筋金入り。
それと比べると、女性の日記からは明確な同性相手の性愛がうかがえません。
女性同士の同性愛がハッキリと記載されていれば「あった」と言いきれます。
しかしそれがないため、あったのか、なかったのか、詳細がわからないのです。
性愛バリエーションとしての女性同士の同性愛
日本最古の女性同性愛を扱った文学は、13世紀後半に成立した『我身にたどる姫君』の第6巻であるとされます。
様々な性愛のバリエーションの中で扱われ、嵯峨院の皇女・前斎宮が、相手に抱きついて伏しているという状態が描かれました。
あまりにくっつきたがる彼女に周囲がウンザリしていたところ、彼女はイケメン公達とあっさり深い仲になるという設定です。
江戸時代の17世紀後半に成立した井原西鶴『好色一代女』にも、女性の同性愛者が出てきます。
ヒロインの一代女が、お年寄りの布団の上げ下ろしをするだけの楽な仕事を発見。
おじいちゃんの相手なんて楽勝だと応募したところ、おばあちゃんがいたという設定であり、このおばあちゃんが「一度男になったつもりでお前を抱きたい」と、一代女に迫るのでした。
このように性的バリエーションの一種として、アンソロジーに女性の同性愛は出てきます。
江戸時代の春画(ポルノ)でも、女性同士の性行為を描いた作品が出てきます。
ただし、男性のように、性愛のバリエーションとして広く認識されていたわけではありません。
中世の日本における恋の悩みを記した願文をみてみると、美少年を手に入れたい男性のものばかりです。いわば性愛の最大手状態です。
戦国時代に来日した宣教師は、この状況に驚愕し、同性愛を禁じようとしました。
しかし……。
「は? できるわけないだろ。何言ってんだか」
と笑われたほど。社会的には、そこまで男性同士の同性愛が認知されていて、女性同士の同性愛とは、普及度や社会認知度で非常に大きな差があります。
また、性愛として認知されていたことと、権利の獲得や保証は別問題です。
あくまで性愛範囲だけが認められていました。
女性同士の【機械的同性愛】描写
『どうする家康』と同時期に放送が始まったNHKドラマ10『大奥』では、男女が逆転したSFの技法を取り入れています。
美男三千人が集うとされた大奥では、同性愛が当然のこととして存在。
第1話では、大奥入りをした水野祐之進が強引に性的関係を迫られると、これを拒んで一騒動という場面がありました。
大奥総取締である藤波には、お気に入りの同性愛相手がいることも描かれています。
こうした同性のみが集う場所で起こることを【機会的同性愛】と呼びます。
軍隊、聖職者、刑務所、別学教育機関などで生じやすいとされ、江戸時代初期における江戸の街も、男女比が極端に偏っていたため、男性同士の【機会的同性愛】が多かったとされます。
しかしそれは、地域差はありながら、時代が下ると下火になってゆきました。
男女比の偏りがそこまで大きくならなくなったことや、藩によっては風紀を正すため禁止したことも背景にあったからです。
男性同士の同性愛は、しばしば暴力沙汰になることもあり、仇討ちでも男色絡みのものが残っています。
そうしたトラブル防止のため禁止されたのです。
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女性同士の同性愛でも、こうした事件や事故が多発したのであれば、何らかの禁制が起きていても不思議ではなかったでしょう。
しかし、それが実際には起きないからこそわかりにくい。
江戸時代には、大奥や尼寺を扱ったポルノも存在します。
「男同士が集まっていたらそうなるんだし、女同士もそうじゃねえのか!」
という想像の産物であり、そんな“百合空間”に男性が入り込んでハーレム状態になるシチュエーションすらありました。
なんだ、今とそう変わらないではないか――と思われたならば、その通りです。ポルノの発想は、時代を超えて似通ってしまうものです。
もしも200年、300年先の未来人が、現代日本における百合ジャンルの萌えコンテンツを研究して、
「令和の女性同性愛の実態とは?」
と真面目に考えたらどう思いますか?
いやいや、一部分だけ切り取るのはやめてぇ! 必ずしも現実を反映しないから、そこは考えてよ! と突っ込みたくなりますよね。
江戸時代の大奥や尼寺ものを真面目に考えることにも、同じ構図があります。
大奥研究が遅れていたことも、男性目線で見ていたことの弊害がありました。
将軍の寵愛を競う美女三千人。
ドロドロしている。
短慮で政治的権力はない。
こうした男性の妄想めいた偏見が反映され、誤解され、過小評価されてきた。
大奥での同性愛がなかったとはいえません。
「あった」とする方が妥当です。
女性同士が用いる性的な道具も見つかっています。
ただし、当事者の声はなかなか記録に残っていません。
そんな状況を男性目線のポルノが上書きしてしまい、ますますわかりにくくなっているのですね。
女性は男性からの性的欲求を拒めたのか?
中国古典文学においても、女性同士の同性愛を扱ったものはあります。
こうした作品での定番ハッピーエンドはこれ――愛する女性同士が、同じ男性の側室となることです。
側室同士が「お姉さま」「妹よ」と呼び合い、愛し合っていたとしても、それはそれでありだとみなされていた。
中国における一夫多妻制は、大家族を模しているとされ、妻妾同士は姉妹として慈しみ合うのが理想です。
ひとつの家族の中にいて、姉妹の延長線上として愛し合うのであれば、逸脱とはみなしにくい。女性同士ならば子もできないし、それはそれでよい終わり方とされるのです。
『どうする家康』におけるお葉は、一見、こうした終わり方を迎えたようにも思えますが、果たしてどうか。
お葉は、本当に愛している存在は侍女・美代であると告げます。そして家康を気持ち悪いと拒み、側室を辞めたいと上申。家康がそれを許すという展開でした。
この流れは果たして妥当なのでしょうか?
お葉の場合、家康の正室である瀬名や、母である於大の承諾を得て側室とされています。
彼女が側室となった理由は、家康の血を引く子を増やすため。子を産むことを条件として、側室という待遇を得ているのです。
たとえ美代を愛するにしたって、子を産むための責務を果たす必要はあるでしょう。
先に引いた中国古典文学の場合、女性同士が姉妹と呼び合い愛し合っていても、身分としては男性の妻妾であると示されています。
男性のもとから脱しているわけではないのであり、あくまでシステムの枠組みの中での、限定的な大団円にとどまっています。
『どうする家康』では、こうした描き方にしておりません。
美代を別の側室の誰かにして、一気に二人に増やすということにはならない。
お葉は西郡局として遇されたとはわかるものの、美代はどういう扱いなのか、そこまでははっきりしていません。
そしてこの描き方ですと、お葉は家康との性交渉を今後も拒んだと見なせます。
西郡局は督姫という一女の母となりました。
これから先は子を産まないからには、それでよいのかどうか。西郡局という呼び方からは側室として遇され、一定の特典があったことがわかります。
『どうする家康』の描写では、性交渉を一切拒み、義務を果たさないのに、側室待遇という特権を得ていたようにしか見えない――いわば契約違反です。
「家康って、寛大だなあ」
そう誘導したいのかもしれませんが、そうすることで女性の置かれていた境遇が不正確に描かれることにも繋がっています。
女性は長いこと、同意を得ず、強引な性交渉を為されることに苦しめられてきました。
ドラマのお葉のように「あんたキモいからもう抱かれたくありません!」といって通じるとは到底思えません。
『どうする家康』の側室関連の描写は、当時なかったとされていたことを、まるであったかのように描いた点に問題があるのです。
・女性同士の同性愛が、広く認識されていて、認められていること
・女性が性的な同意を重視して、自分の感情で性交渉を拒否できること
なぜ、こんなことが暗に描かれてしまったのか。状況からして、あまりに不自然でしょう。
本作はこれまで数多の表現が問題視されてきました。
・織田信長が銃を連射する
・清洲城がまるで別の文化圏の宮殿のように見える
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今回の唐突すぎる女性同士の同性愛も、その類のウケ狙い描写と同じように見えてなりません。
近年のNHK時代劇で描かれた同性愛は
同性愛描写を大河ドラマで描くことがおかしいのではありません。
自らが原因で、子ができないと語っていた源実朝。
妻を愛しながらも、男性としか深い仲になれないと思い悩むことは、歴史的根拠がないわけでもなく、プロットにも大きな影響がありました。
当時は性愛のバリエーションとしての男性同士の同性愛は広く認められています。
しかし、それでも将軍が子を為す責務も全うせねばならず、実朝は自分自身の葛藤を解決できないのです。その苦悩を描く意義はあります。
女性同士の同性愛描写が悪いわけではありません。
ドラマ10『大奥』では、将軍である綱吉と、その側近である柳沢吉保が描かれました。
吉保は幼い頃から綱吉を恋慕っていました。綱吉のそばにいるために、不本意ながらも綱吉の父・桂昌院による性的虐待にも耐え続けました。
それなのに思いが通じていないことに絶望し、最愛の人を我がものにするため手にかけるという、哀切な展開でした。
吉保は、女性同士である自分たちが結ばれるとは思っていなかったのでしょう。
抑えつけていた気持ち。それを綱吉が理解しないばかりか、右衛門佐だけが損得抜きで自分を愛していたと語ったことで、我慢の限界を迎えたのでした。
もしも彼女が思いを抑え込まずに済んでいれば、起こらずに済んだ悲劇でしょう。男女が逆転していても時代が追いついていないからこその描写といえます。
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こうした描き方と比較すると、『どうする家康』はあまりに軽薄ではありませんか。
好きな人が別にいるから、特権だけは受け取るけど、嫌な責務は果たさない。
さしたる後ろ盾のないお葉があっけらかんと告白し、それを家康の一存で決めてしまう。
正妻である瀬名の立場は?
別の子供を欲しがる於大の意思は?
こうした女性たちに逆らえない家康の様子が散々描かれてきただけに、整合性も取れていないように思えます。
百合でウケ狙いw
百合落ちなんてトリッキーww
側室選びでまさかの大爆笑www
そんなネットニュースも並んだものですが、歴史の中における女性同士の同性愛とは、そう簡単に扱ってもよいものなのでしょうか。
疑念ばかりが湧いてきます。
クィア・ベイティング:そう認識されないために
近年、批判される描写として【クィア・ベイティング】があります。
クィア・ベイティングとは、性的指向の曖昧さなどをほのめかし、世間の注目を集める手法といえます。
男性同士の同性愛が禁忌とされ、処罰まであったキリスト教圏とは異なり、日本では歴史的に【クィア・ベイティング】を古くからしてきたと言えるかもしれません。
武士の場合、「あのお方は主君と枕を共にするほど、信頼されていたのである」という顕彰の仕方がありました。
この男性同士の同性愛こそ、恋愛における手練手管の頂点とも言えます。
江戸時代、遊女は作り物の指を客に届けました。
相手を愛するあまり、自分を傷つけたというアピールです。これはもともと男性同士の求愛でなされていたことです。
深く思う気持ちを示すために、太ももや腕を突くこと。あるいは恋敵を殺傷することが“美談”として消費されていました。
もちろん本当に毎回そんな殺傷をしているわけでもなく、フェイクも混ざっていたのですが。
これをプロットに埋め込んだ大河が2017年『おんな城主 直虎』です。
男性を寵愛することが少なかったとされる家康が、例外的に閨でかわいがったという井伊直政。
この関係を、性的なものではなく、二人きりで語り合うための場であったとして描いたのです。
なまじそういう歴史があるためか、曖昧な男性同士の同性愛を描くことに忌避感がない。
ゆえに【クィア・ベイティング】の何が悪いのかピンときていないのが、日本のコンテンツかもしれません。
大河ドラマでも【クィア・ベイティング】を客寄せ要素として喧伝した例があります。
2009年『天地人』です。
上杉謙信と景勝は、同性愛傾向が強い人物として知られています。
謙信と面識があったかどうかもはっきりとしない直江兼続ですが、謙信の寵童であったとするフィクションは多い。
そうした要素を用いて、公式がボーイズラブ(以下BL)漫画をタイアップとして発行しました。
2012年『平清盛』の藤原頼長は、時代考証的にも誇張が過ぎるうえに、異常性のあるBLでウケを狙うような描写が目立ちました。
当時は男性同士の同性愛はごく当たり前のことであり、頼長が異常だとされたのはその執拗性ゆえにです。それを同性愛そのものが異常であるかのような描き方で、不正確に思えたのです。
ファンダムも同性愛者を揶揄するネットスラングで盛り上がり、差別に澱んだ空気が漂っていました。
2018年『西郷どん』です。
あの作品の売りは「西郷隆盛はモテる」というものでした。
西郷のカリスマ性を「モテ」という現代の価値観に落とし込んだ、ひどい宣伝戦略といえます。
その「モテ」の中に男性同士も含めた結果、【西南戦争】が出来の悪いBLゲーシナリオバッドエンド状態になるという、酷いオチを迎えたのでした。
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2022年『鎌倉殿の13人』は、【クィア・ベイティング】にはあてはまらないと思えます。
番組の宣伝でそこを強調していたわけでもありません。
歴史的な諸説のひとつを用いて、粗雑なオチだの爆笑ネタとして用いていたわけでもありません。
そこまで進歩したのに、『どうする家康』では典型的な【クィア・ベイティング】に陥ってしまいました。
BL要素でウケ狙いをするというのは典型的。
まさか、
「BLだけでダメだっていうなら、百合も入れるかw」
といった安直な流れにしておりませんよね?
序盤からやけに目立った信長と家康の関係性からすると、
◆「どうする家康」初回 まさかのBL展開?台詞回しやCG“新しい大河”NHK会長も評価「価値ある挑戦」(→link)
◆『どうする家康』は「BL漫画×コンフィデンスマンJP」なのかもしれない(→link)
◆“俺の白兎”で話題「どうする家康」BLのようなセリフ連発!?腐女子「古のスパダリBLか?」(→link)
◆一体何を見せられてるんだ…『どうする家康』がBL戦国絵巻で脳が追いつかない(→link)
そんなことは無いとも言い切れないように思えるのが辛いところです。
どうするNHK、どうする大河ドラマ――。
もっとも、絶望するにはまだ早いのかもしれません。
「鎌倉殿の13人』や『大奥』もあります。
女性同士の同性愛を綿密に考証した『作りたい女と食べたい女』もよいドラマでした。
2023年は諦めるにせよ、2024年の大河ドラマがあります。
『光る君へ』では、丁寧な女性同士の関係性が描かれると期待を込めたいと思います。
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【参考文献】
大塚ひかり『ジェンダーレスの日本史-古典で知る驚きの性』(→amazon)
『新書版 性差の日本史』(→amazon)
スーザン・マン『性で読む中国史』(→amazon)
弓削尚子『はじめての西洋ジェンダー史: 家族史からグローバル・ヒストリーまで』(→amazon)
他










