女性同士の同性愛

女性同士の同性愛を描いた春画/wikipediaより引用

どうする家康感想あらすじ

女性同士の同性愛は日本史でどんな扱いをされてきた?どうする家康考察

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
女性同士の同性愛
をクリックお願いします。

 


女性同士の【機械的同性愛】描写

『どうする家康』と同時期に放送が始まったNHKドラマ10『大奥』では、男女が逆転したSFの技法を取り入れています。

美男三千人が集うとされた大奥では、同性愛が当然のこととして存在。

第1話では、大奥入りをした水野祐之進が強引に性的関係を迫られると、これを拒んで一騒動という場面がありました。

大奥総取締である藤波には、お気に入りの同性愛相手がいることも描かれています。

こうした同性のみが集う場所で起こることを【機会的同性愛】と呼びます。

軍隊、聖職者、刑務所、別学教育機関などで生じやすいとされ、江戸時代初期における江戸の街も、男女比が極端に偏っていたため、男性同士の【機会的同性愛】が多かったとされます。

しかしそれは、地域差はありながら、時代が下ると下火になってゆきました。

男女比の偏りがそこまで大きくならなくなったことや、藩によっては風紀を正すため禁止したことも背景にあったからです。

男性同士の同性愛は、しばしば暴力沙汰になることもあり、仇討ちでも男色絡みのものが残っています。

そうしたトラブル防止のため禁止されたのです。

鍵屋の辻の決闘
主君のBLに横恋慕して殺害!鍵屋の辻の決闘がなぜ日本三大仇討ち?

続きを見る

江戸時代の男色BL
江戸時代の男色・BLをナメたらアカン!時には暴力的で甘み要素は無し

続きを見る

女性同士の同性愛でも、こうした事件や事故が多発したのであれば、何らかの禁制が起きていても不思議ではなかったでしょう。

しかし、それが実際には起きないからこそわかりにくい。

江戸時代には、大奥や尼寺を扱ったポルノも存在します。

「男同士が集まっていたらそうなるんだし、女同士もそうじゃねえのか!」

という想像の産物であり、そんな“百合空間”に男性が入り込んでハーレム状態になるシチュエーションすらありました。

なんだ、今とそう変わらないではないか――と思われたならば、その通りです。ポルノの発想は、時代を超えて似通ってしまうものです。

もしも200年、300年先の未来人が、現代日本における百合ジャンルの萌えコンテンツを研究して、

「令和の女性同性愛の実態とは?」

と真面目に考えたらどう思いますか?

いやいや、一部分だけ切り取るのはやめてぇ! 必ずしも現実を反映しないから、そこは考えてよ! と突っ込みたくなりますよね。

江戸時代の大奥や尼寺ものを真面目に考えることにも、同じ構図があります。

大奥研究が遅れていたことも、男性目線で見ていたことの弊害がありました。

将軍の寵愛を競う美女三千人。

ドロドロしている。

短慮で政治的権力はない。

こうした男性の妄想めいた偏見が反映され、誤解され、過小評価されてきた。

大奥での同性愛がなかったとはいえません。

「あった」とする方が妥当です。

女性同士が用いる性的な道具も見つかっています。

ただし、当事者の声はなかなか記録に残っていません。

そんな状況を男性目線のポルノが上書きしてしまい、ますますわかりにくくなっているのですね。

 


女性は男性からの性的欲求を拒めたのか?

中国古典文学においても、女性同士の同性愛を扱ったものはあります。

こうした作品での定番ハッピーエンドはこれ――愛する女性同士が、同じ男性の側室となることです。

側室同士が「お姉さま」「妹よ」と呼び合い、愛し合っていたとしても、それはそれでありだとみなされていた。

中国における一夫多妻制は、大家族を模しているとされ、妻妾同士は姉妹として慈しみ合うのが理想です。

ひとつの家族の中にいて、姉妹の延長線上として愛し合うのであれば、逸脱とはみなしにくい。女性同士ならば子もできないし、それはそれでよい終わり方とされるのです。

『どうする家康』におけるお葉は、一見、こうした終わり方を迎えたようにも思えますが、果たしてどうか。

お葉は、本当に愛している存在は侍女・美代であると告げます。そして家康を気持ち悪いと拒み、側室を辞めたいと上申。家康がそれを許すという展開でした。

この流れは果たして妥当なのでしょうか?

お葉の場合、家康の正室である瀬名や、母である於大の承諾を得て側室とされています。

彼女が側室となった理由は、家康の血を引く子を増やすため。子を産むことを条件として、側室という待遇を得ているのです。

たとえ美代を愛するにしたって、子を産むための責務を果たす必要はあるでしょう。

先に引いた中国古典文学の場合、女性同士が姉妹と呼び合い愛し合っていても、身分としては男性の妻妾であると示されています。

男性のもとから脱しているわけではないのであり、あくまでシステムの枠組みの中での、限定的な大団円にとどまっています。

『どうする家康』では、こうした描き方にしておりません。

美代を別の側室の誰かにして、一気に二人に増やすということにはならない。

お葉は西郡局として遇されたとはわかるものの、美代はどういう扱いなのか、そこまでははっきりしていません。

そしてこの描き方ですと、お葉は家康との性交渉を今後も拒んだと見なせます。

西郡局は督姫という一女の母となりました。

これから先は子を産まないからには、それでよいのかどうか。西郡局という呼び方からは側室として遇され、一定の特典があったことがわかります。

『どうする家康』の描写では、性交渉を一切拒み、義務を果たさないのに、側室待遇という特権を得ていたようにしか見えない――いわば契約違反です。

「家康って、寛大だなあ」

そう誘導したいのかもしれませんが、そうすることで女性の置かれていた境遇が不正確に描かれることにも繋がっています。

女性は長いこと、同意を得ず、強引な性交渉を為されることに苦しめられてきました。

ドラマのお葉のように「あんたキモいからもう抱かれたくありません!」といって通じるとは到底思えません。

『どうする家康』の側室関連の描写は、当時なかったとされていたことを、まるであったかのように描いた点に問題があるのです。

・女性同士の同性愛が、広く認識されていて、認められていること

・女性が性的な同意を重視して、自分の感情で性交渉を拒否できること

なぜ、こんなことが暗に描かれてしまったのか。状況からして、あまりに不自然でしょう。

本作はこれまで数多の表現が問題視されてきました。

今回の唐突すぎる女性同士の同性愛も、その類のウケ狙い描写と同じように見えてなりません。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-どうする家康感想あらすじ

×