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【大日本帝国憲法】
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憲法は先進国の条件として好意的に受け入れられた
明治天皇は立憲君主であろうと務めていましたし、立場上本心を漏らすことは控えていたでしょうから、この辺をどう考えていたかはわかりません。
しかし、うがった見方をすると「明治政府がいかに天皇を神格化し、統治に利用するか腐心していた」ことの現れともとれますね。
そのくせ条文などでは立憲君主制を強く意識したと思われる「◯◯の場合に天皇は◆◆できる」といった文が続くので、ねじれているというかなんというか……。
神聖視するのか利用しようとしてたのか、どっちなんだ?とツッコミたくなってきます。
この頃お雇い外国人として日本に来ていたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは
「伊藤博文が皇太子(後の大正天皇)に関する話の中で、操り人形を動かすような仕草をしてみせた」
と日記に書き残していました。
憲法の中にもそういった考えが現れていたのでしょうか。
明治日本の長短所~エルヴィン・フォン・ベルツはどう見てたのか?
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しかし、当時は「憲法ができる」=「先進国としての最低条件」と受け取る人が多く、好意的に見られていました。
「議会ができる」=「国民から選ばれた議員が国政に参加できるようになる」からだと思われます。
日本初の衆議院選挙は、大日本帝国憲法発布の翌年である明治二十三年(1890年)に行われました。
ただし投票権を持つのは成人男性のうちごく限られた一部(直接国税15円以上の人)だけで、選挙で選ばれるのは衆議院のみ。
良くも悪くも“最初の一歩”だったわけですね。
帝国議会とは?
議会は「帝国議会」と呼ばれ、略して「国会」とされました。
おおむね「大日本帝国憲法が使われていた時代=帝国議会だった時代」と思っていいでしょう。
帝国議会は、
・貴族院
・衆議院
の二院制で、衆議院が予算先議権を持つ以外、ほぼ対等の権限を持っていました。
この時代の日本での貴族=華族なのに「華族院」じゃないのは、もしかしたら皇族や高額納税者・学者なども貴族院議員になれたからですかね。
ちなみに、華族や貴族院議員になった元大名もたくさんいました。
例としては徳川慶喜や松平容大(容保の息子)、毛利元徳(毛利敬親の息子)などがいます。
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さすがにこのくらいの時代になると、維新時に大名だった人より、その次の世代が増えており、時の流れが感じられますね。
帝国議会は毎年12月に召集され、会期は三ヵ月とされていました。
必要により勅命で延長したり、臨時会も時と場合によって開くことが可能でした。この辺は現代の国会と似ていますね。(現代は毎年1月に通常国会招集・会期150日)
帝国議会では、衆議院が解散されると貴族院も停会しましたが、逆に貴族院によって衆議院が何かしらの制限を受けることもありました。
現代の国会では「衆議院の優越」があるので、ここが大きく違いますね。
現代から見れば、明治時代の憲法や議会には不十分な点やツッコミどころがたくさんあります。
しかし、その背後には当時の情勢や価値観が大きく影響しているのですから、時代が変わったということです。
大日本帝国憲法が廃止されたのは、日本国憲法(現代の憲法)が施行された昭和二十二年(1947年)のこと。
既に、日本国憲法のほうが長く使われていることになります。
現代の憲法も、今後大きく情勢が変わることがあれば、改正や廃止せざるを得ないときが来るのかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典