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【倒幕で放り出された幕臣たち】
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幕臣から藩士に戻る
身分として幕臣に取り立てられていたけれど、所属していた大名家に戻る――そんなケースもあり、廃藩置県までは可能でした。
わかりやすい例として、斎藤一をあげましょう。
浪人として新選組に入る(新選組は会津藩お預かり)
↓
新選組幹部である近藤勇、土方歳三は「幕臣」としての身分を選ぶ。斎藤一は彼らに従わず、会津藩で別行動を取る
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明治維新後は会津藩士から斗南藩士となる
新選組の分裂は、各人の心情的な対立があったとされます。
しかし、当時の身分について考えてみると見えてくるものがあります。
幕府に直接雇用された幕臣か? それとも会津藩所属か?
前者だと考えれば、会津藩と別行動をとる。
後者なら、会津藩のために動く。
斎藤一は会津藩としての行動を選んだ典型例であり、それは死後であっても続いています。彼は、会津に墓を建てて欲しいと言い残し、それが実現されました。
このように、元の藩士としての所属を回復し、戻った者もおりました。
とはいえ、これも廃藩置県までのこと。
以降はどこかに再就職を果たすしかなく、斉藤の場合は、警視庁に巡査として就職します。そしてその後も会津藩時代の人脈を頼りに、働き口をみつけてゆくのでした。
『るろうに剣心』の斉藤一も味がありますが、史実の彼もまた、明治を生きる元武士の一典型として興味深いものがあります。
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漫画『ゴールデンカムイ』で言うと、門倉という人物がいて、彼の父が北海道へ渡った会津藩士あたりと推察できます。
彼等のように負け組の子孫たちが、北海道でたくましく生き抜いていたのです。
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海外移住という驚きの手段
驚きの選択肢としては、海外亡命というルートもありました。
例えば徳川慶喜。
勝海舟、山岡鉄舟による助命交渉が失敗した場合、慶喜はイギリスに亡命する案がパークスと勝によって密かに進められていました。
幕臣では塚原昌義がいます。
遣米使節に入り、海外通でもあった塚原は【鳥羽・伏見の戦い】で幕府軍の副総督を務めました。
敗戦後、味方から指揮の拙さを責められた塚原は、横浜からアメリカへ逃亡。
明治3年(1870年)末に帰国すると、翌年4月末に自首しています。
ただし翌年の明治5年(1872年)になると赦免され、武田昌次と名を改め明治政府に出仕したのでした。
これは幸運な成功例と言えます。
水戸藩では、海外逃亡に失敗し、悲惨な最期を迎えた人物もいます。
ときは明治元年(1868年)。
そのころ、天狗党の乱で非業の死を遂げた武田耕雲斎の孫・武田金次郎が、敵対する諸生党を血祭りにあげていました。
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諸生党の首魁は市川三左衛門弘美。
東京に潜伏していた市川は、形勢不利と見て、フランス渡航を計画していました。
しかしあと一歩というところだった明治2年(1869年)、天狗党に捕えられてしまいます。
そして同年4月、水戸郊外・長岡原で「逆さ磔」にされて処刑されたのでした。
いかがでしょう。武力討幕は、日本各地に流血や怨恨を産み、幕臣の再出発を阻んだのです。
集団移住の実例もあります。
会津藩士たちがカリフォルニアに移住し、「若松コロニー」を築いた例です。
日本初のアメリカ移民とされますが、現地に溶け込んでしまったのか、痕跡が消えてしまいます。
おけいという若い女性の墓が発見されるまで、忘れられていたのです。
この若松コロニー出身者という設定の少女が、漫画『GUN BLAZE WEST』にコリス・サトーとして登場しておりました。打ち切りであることが惜しまれます。
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