出会ってはいけない二人が恋に落ちてしまい、現実を前にして想い叶わず、それぞれの道を歩んでゆく――。
大河ドラマ『光る君へ』は、まひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)の恋を中心に物語が進んでゆきます。
そんな二人の関係を頭から否定しそうな強烈キャラと言えば?
そう、ファーストサマーウイカさん演じる“ききょう”こと清少納言でしょう。
ドラマ第14回放送で、出世のためなら夫も子も捨てる――と高らかに宣言していたききょうにしてみれば、まひろと道長の恋など鼻で笑ってしまう、いわば「ゲスの恋」。
なんて言うと反発されるかもしれませんが、実際の清少納言がそういった記述を残していて、今後ドラマでも同様のシーンはあるかもしれません。
では彼女はどんな風に記録に残していたのか?
ドラマの表現と照らし合わせながら、振り返ってみましょう。
※TOPイラストはアニィたかはしのマンガ『大河ブギウギ 光る君へ編』より
まんが『大河ブギウギ 光る君へ編 第13話』“文字”がまひろの生きる道
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ゲスにイラつく清少納言
書きっぷりの良い『枕草子』がスカッとするせいか。
現代社会でもファンの多い清少納言。
今も昔も一々キツい言い回しの人はいて、彼女はその典型例と言えるでしょう。
自らが仕えた藤原定子のことは天女か菩薩のように優しいと表現をしますが、他の者に対しては辛辣であり、まず強烈なのがルッキズムです。
基本的に小さなものは全て愛おしく、子どもはカワイイと書き記す一方、ブサイクな子どもについては親が咎めないとイライラすると平気で表現してしまう。
それだけでなく
ブサカップルが真昼間から寝てるとよォ〜、醜くてムカつくよなァ!
寝るなら夜、人目につかないところで寝ろ!
など、現代のSNSならアンチハッシュタグを作られ非難されても全くおかしくありません。
毒舌・清少納言は、ともかくゲスが大嫌いなのです。
「ゲスい」とは、現代人が思うような性格とか性根の問題ではなく、下層階級の者たちが身分をわきまえず、調子こいてるような姿勢や態度を指します。
ゲスと推しが一致するとムカつく!
ゲスの推しは、それだけで価値が下がる!
ゲスに優しい貴公子も評価が落ちる!
ゲスが私の悪口を言っていると、むしろ「よっしゃー!」ってなる!
といった具合です。
そんなききょう(清少納言)ですから、『光る君へ』で、まひろに惚れる道長はその時点でダメダメ。
まひろ自体がお話にならないい身分なのに、それに恋する道長もありえない!となってもおかしくはありません。
史実では、藤原道長やそのシンパと政治的対立はあっても、人間性までは否定をしていなかった清少納言。
彼女が「ケッ」と吐き捨ててしまいそうなのが、ドラマにおけるまひろと道長の秘めた恋でした。
実は彼女自身、さほどの美貌だったとは思えません。
定子の美貌は微細にわたって記し、自分はいまいちだという書きぶりから想像できる。
階級にしても、当時の貴族ランクで考えれば、せいぜい中の下。
いや、だからこそ、他者に対してムカツキも強くなり、余計に厳しい書きっぷりになるのかもしれません。
一応、擁護をすると、当時はルッキズム(容姿至上主義)の強いことが、むしろ常識でもありました。
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さて、ここからはドラマのききょう目線になり、まひろのゲス恋にダメ出しをしてみましょう。
ゲスその1「出会いからしてゲスでしょ!」
まひろと三郎(元服前の藤原道長)の出会いは、偶然だった――。
第1回放送で、逃げた小鳥を追いかけたまひろが、身をやつしていた三郎と出会い、物語は始まります。
はい、ここでききょうさんのダメ出し。
「あのさ、出会った時点で、二人とも貴族じゃないと思っていたんでしょ? そんなの野合(やごう)じゃない?」
野合(やごう)とは、まひろも読んでいる『史記』「孔子世家」に登場する言葉であり、当人同士が勝手に結婚することを言います。
まっとうな貴族同士であれば、まずは相手のスペックを確認せねばならない。
・地位
・経済力
・親の勧め
結婚相手に求める基準は当時では重要なこと。そんな大事な手順を踏まず、いきなり出会っていい仲になるなんて、一体なんなのか?となります。
これは直秀はじめ周囲の人が気にしている素振りもありましたね。
当人ですら、相手の身分が判明する前と後では態度が変わっています。
ゲス2「顔を見せ合うのがありえない…私もだけど」
道長は、まひろを見て「こんなに笑う女は初めてだ」とまぶしげな表情を浮かべました。
視聴者からすれば、青春そのものといえるでしょう。
しかし、これまたききょうからすれば「ありえない!」となりかねません。
ドラマでききょうが顔を見せていることは作劇上の都合として、当時の上流階級ともなれば、顔を見せることすらしない。檜扇で隠したのです。
何かあると顔が見えてしまう【女房】ですら、はしたないものだとされてきました。
清少納言はそのことに対して苛立ちを感じていることがわかります。
女房なしでは宮中など回らないのに、そのために働く女を「下劣だな」と軽蔑するとは何事か!
藤原行成は清少納言の顔を見ようと興味津々であり、あるとき偶然見てしまうとすっかり打ち解けていきました。
平安時代について、顔を見せ合ったらそれはもう同衾したようなものという説明もあります――そこまで極端ではないにせよ、顔を見せ合ったら相当仲が近いことは確かでしょう。
『光る君へ』では、第6回にききょうが颯爽と登場し、顔を見せていました。
藤原行成もこの漢詩の会にいたため、顔を見ていてもおかしくはありません。そこはあくまでドラマ上での都合です。
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