こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【吉岡彌生】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
母校である済生学舎が、女子の入学を拒否した
その後、都内で開業。
公私共に順風満帆に見えた彌生は、29歳のときに信じがたいニュースを耳にします。
母校である済生学舎が、女子の入学を拒否したというのです。
理由は「他の学校と同じく入学試験ができたこと」「女子がいるせいで学内の風紀が乱れたから」という、現代であれば人権団体が激おこになるようなものでした。
というか昨今も複数の大学における入試問題で、男女差別が明るみにでたばかりですよね。本当に嘆かわしい。
彌生が済生学舎にいた当時は入学試験がなく、だからこそ女子も入学できるということになったのです。
しかし、卒業して立派に医師として働いていた彌生からすれば「風紀が乱れるのは自律心の欠如であり、女子だけの責任ではない!」と言いたくなるのも当たり前の話。
おそらく他の女性医師の中にも同じことを考えた人はいたでしょう。
彌生がスゴイのは、そこで「女子のための医学校を作ろう!」と思い立ち、その年のうちに本当に学校を作ってしまったことです。行動力すげえ。
これが東京女医学校です。
設立から12年で東京女子医学専門学校という名前で昇格し、20目には文部省指定校となって、卒業=医師資格取得の権利を得ました。
女性だけの医学校にこだわった理由
残念ながら、夫・荒太とはその後すぐに死に別れてしまいました。
彌生は女性医師や産婆(現在は助産師)、看護婦育成のため、ますます奮起していきます。
文部省の委員になったり、教育厚労省を受賞したり……。公の機関にも働きを認められ、日本の代表として欧米の医学・母子保護事業の視察に行ったこともありました。
戦時中もいろいろな役に就き、そのために戦後一時期教職・公職追放されています。
しかし、その間も大学設置の認可が出たりしているのでよくわかりません(´・ω・`) 日本の事情も複雑怪奇です。
彌生は1871年生まれですので、戦後になる頃には立派な(?)老婦人になっています。
が、写真を見ると眼光や背筋の伸びた姿は若い頃のまま、という印象を受けます。
そしてそれは、外見だけではありませんでした。
戦後は「女子だけの教育環境というのはいかがなものか」という、以前とは真逆のよくわからん理屈で非難されたこともありました。
「女性の経済力を上げるためには、女性だけの教育環境が欠かせない」「医師は女性に適した職業である」と考えていた彌生は、あくまで女性だけの医学校にこだわります。
この考えがあるため、東京女子医科大学は今も国内唯一の女子医科大学となっています。
叙勲を機に危篤状態から立ち上がり完全復活!
もう一つ、彼女の気迫が伝わってきそうなエピソードがあります。
彌生は85歳で勲四等を受けたとき、体調を崩して危篤状態でした。
が、叙勲の知らせを聞くや奮起し、体を治してしまったというのです。
しかも叙勲までギリギリ持ちこたえたというのではなく、その後3年ほど生きています。
「病は気から」とはいいますように、寿命まで気迫でなんとかなるもんなんでしょうか。
これこそ東京女子医科大学なり、他の医大なりで研究していただきたいものです。
亡くなったのは88歳、米寿を迎えた後のことです。
遺言によって遺体は解剖され、後の医学のために活かされました。
徹頭徹尾「女性と医学」のために生きた――とてもカッコいい生き様ですね。
あわせて読みたい関連記事
6才で渡米した津田梅子が帰国後に直面した絶望~女子教育に全てを捧げて
続きを見る
世界を魅了したスター歌手・三浦環の生涯とは? 朝ドラ『エール』双浦環モデル
続きを見る
会津藩家老の娘・大山捨松が辿った激動の生涯~留学後に敵の妻となる
続きを見る
明治の紫式部と呼ばれた税所敦子が地味に凄い~幕末薩摩からの飛翔に注目
続きを見る
クズ男に翻弄され斬首刑に処された「高橋お伝」の不憫すぎる一生
続きを見る
昭憲皇太后のお召書~和服だった明治の日本女性に洋服を薦めた功績
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
吉岡彌生/Wikipedia
一般社団法人至誠会/Wikipedia
唐津探訪(→link)