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【三浦環】
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もう三浦と結婚するしかない
このあたりから、環はわけのわからない三角関係スキャンダルに巻き込まれることになります。
環は、上京した前夫・藤井とも会って食事をしたことがありました。思い出話をする程度の気楽なものでした。
すると新聞記者が名刺を持って、環にこう尋ねたのです。
「あなたは昨日、三浦政太郎と食事をして逢引をしたようですね……」
環は驚きました。
会ったのは前夫で、根も葉もない話!
ところが記者は、この新聞を見ろとスキャンダラスな記事を突きつけてくるのです。
環は驚き、藤井に相談しました。再婚が決まっている藤井は、真相を明かされても困ると慌てるばかり。公証人の父・猛甫に相談すると、これはもう三浦と結婚するしかないと勧めてきます。
わけのわからない状態に巻き込まれた挙句、猛甫はこう言い切りました。
「環は音楽家だ。家庭的なことは期待しないでもらいたい。それで一度は離婚しているほどで」
すると三浦はうっとりとしながら返してきます。
「構いません。私が愛しているのはそんな環さんです。このような社会の花を家庭に閉じ込めるのは封建的だ、芸術への冒涜だ!」
こうして、三浦との婚約が決まります。
そんなことでよいのかと言いたくなる気持ちもわかりますが、この選択は結果的には成功でした。
三浦政太郎と結婚 海外へ
誤解されがちなところがある環。
彼女を見る世間の目は冷たいものでした。
明治42年(1909年)、助教授になって二年後、環は東京音楽学校を辞任します。
しかし、その美声を世間が放っておくわけもなく、明治44年(1911年)には、帝国劇場歌劇部の主席歌手として迎えられ、注目を集めました。
と、ここでも災難が襲ってきます。
明治天皇の容態がおもわしくない中、オペラどころではないということが一つ。
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もう一つは、歌劇部の千葉秀甫という男が、三浦という存在がいるにも関わらず、しつこく環に迫るようになっていったのです。結婚すら目論んでいるようで、環は嫌気がさしてしまいます。
環は千葉から逃げるため、三浦が当時赴任していたシンガポールまで逃げました。
すると、千葉はシンガポールまで追いかけてきたのです。
しかしそこで「環はドイツに行きました」という作り話に引っかかり、実際、ドイツまで向かってしまうのですから凄まじい。
そしてその後、失意のまま世を去ります。今なら確実にストーカー案件であり、環はその執念に恐れを感じていたようです。
どうやら環には、本人ですら制御できないほど魅力的なところがあったようです。三浦との結婚も、周囲は彼女が誘惑したのではないかと気を揉んだとか。
ともあれ世間の誤解と困難を乗り越えて、大正2年(1913年)、環は三浦政太郎と結婚を果たしました。
当時の環は、千葉がまだ東京にいると思い込んでいて、気が気でない。
三浦にしたって、悪女に騙されたと周囲から思われている。夫妻はいっそのこと日本を飛び出そうと考え始めました。
かくして、ドイツでリリー・レーマンにつき、声楽の勉強をすることとしたのです。
英国王夫妻の前で歌う 日本から来たプリマドンナ
かくして夫妻は、海外旅行へ向かいました。
横浜を出発する際、環は洋服を着たいと訴えるものの、三浦は反対。初めての夫婦喧嘩でした。
香港ではペストが流行していて、上陸できず。
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ドイツでリリー・レーマンに会おうとするものの、夏の休暇中というバッドタイミング。
しかも、第一次世界大戦が始まってしまう。
もう、音楽どころではありません。
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三浦夫妻は苦労をしながら、なんとかイギリスまで脱出しました。
夢を諦めきれない環は、ヘンリー・ウッドに手紙を出します。
最初は返事がなく、二度出したところでようやくテスト受験を許されました。
緊張しながら、精一杯の声でピアノにあわせ、ウッドの前で歌います。
ウッドは感嘆しました。
「マダム三浦、私はあなたのように完成した声楽家に教えられることはありません!」
このテストには、レディー・ランドルフ・チャーチルという体格の良い貴婦人も同席していました。
彼女はウッドの選評を聞き、環に握手を求めて来ます。
「あなたは日本初の声楽家ですわ。来月、アルバート・ホールでコンサートをします。ぜひご参加いただき、日本の歌を紹介していただけませんか」
このチャーチルという貴婦人の息子が、あのウィンストン・チャーチルです。
環は、マールバラ侯爵夫人の誘いにより、ロンドンで日本の歌を披露するという、とてつもない幸運を得たのです。
驚くことに、このコンサートは赤十字開催でした。
大戦の最中に赤十字開催ともなれば、国家規模のイベントです。
なんせジョージ5世国王夫妻も出席。イギリス大使夫人がこれを聞き感涙したのも、納得できる話です。
彗星のように現れた、日本の歌姫・三浦環――彼女は『リゴレット』のアリア「麗しき御名」、続いて日本の歌として「さくらさくら」と「ほたる」を歌い上げました。
拍手喝采とアンコールを浴びた環に、楽屋である美しい女性が抱きついてキスをしてきます。
なんと彼女は、環が憧れるアデリーナ・パッティでした。
「マダム三浦、あなたの歌は素晴らしい!」
そう褒める女性を環は40代くらいの美女かと思いましたが、なんと当時既に70を過ぎていた伝説の声楽家であったのですから、驚かされます。
伝説に絶賛され、プログラムに名前が並んだ環。
たった一度のこの出会いを、彼女は生涯忘れることはありませんでした。
ヨーロッパ中が熱狂した歌姫
日本から現れた彗星の如きプリマドンナ。
美声の持ち主・マダム三浦――ヨーロッパ中がこの歌姫に熱狂しました。
大スターとなるには、代名詞となるような作品が必要です。
当時の欧米は、オリエンタリズムに夢中。東洋からもたらされた浮世絵や芸術品、伝統技能に熱い眼差しが注がれていたのです。
これは音楽の世界にも及びました。
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そんな最中に『ミカド』、そして『蝶々夫人』といった作品が生み出されたのです。惜しまれる点があるとすれば、東洋美の体現者が歌い上げないことでしょう。
そこへ三浦環が現れたのですから、これはもはや運命としか言えない。
大正4年(1915年)、環は『蝶々夫人』の主役・蝶々さんを演じることとなるのです。
彼女なりに、このことには悩みました。
そこで描かれている蝶々さんは、西洋人の願望を通した像です。
日本人だからこそ、リアリティが生まれるわけでもない。役柄を読み込みつつ、環は蝶々さんに挑みます。
日本人女性を描いた傑作オペラ『蝶々夫人』これのどこがエエ話?
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しかし……。
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