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【津田梅子】
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天から授かった梅子
津田梅子は留学生同士の共同生活のあと、ワシントンに住むランマン夫妻に預けられました。
チャールズとアデラインの夫妻は、仲睦まじいものの、子は生まれませんでした。
そんな夫妻にとって、津田梅子は天から授かったような少女だったのです。
拙い英語なれど、自分なりの意見を言う梅子の聡明さに、夫妻は喜びます。
特に夫妻を驚かせ、喜ばせたこと。それは、里親となった翌年に津田梅子が受洗したいと言いだしたことでした。
誰も強制したわけではない。それなのに、自らそう言いだしたのです。
はじめこそ幼児洗礼形式で行うとされたものの、その聡明さゆえに成人と同じ形式での洗礼となりました。
このころ、日本人の認識としては、まだまだキリスト教への警戒心がありました。
捨松の兄である健次郎は「絶対にキリスト教徒にはなるまい」と自らを戒め、妹はじめとする女子留学生の洗礼にも断固反対していたほどです。
そんな中で、津田梅子の受洗です。
新聞記事になるほど、大きな話題となりました。
実際、梅子の聡明さはかなりのもの。英語力を身につけ、学芸会では難しい詩の暗唱もこなす。
こうした津田梅子の動向は、新聞紙面を幾度も飾ったのでした。
ランマン夫妻にとって、その喜びはどれほどのものであったことでしょうか。
津田梅子は誇りある養女でした。
夫妻の深い情愛の中、10年間の留学生活を終えた梅子。英語力と教養を身につけ、胸を期待に膨らませながら帰国したのです。
しかし、その先は予想外のことばかりが彼女を待ち受けていたのでした。
日本でのアメリカ娘、苦闘する
明治15年(1882年)晩秋――。
「アラビック号」での荒れた航海を乗り越え、母国の土を再び踏んだ津田梅子。そこで彼女は、愕然とします。
日本での彼女は異邦人。
アメリカ娘でした。
トリオのうち、捨松と繁子は進学先のヴァッサーカレッジ外で、語り合うことがありました。
留学した際の年齢も、津田梅子よりは上です。
そうした違いもあり、梅はトリオのうちで最も日本語力が衰えていたのです。
家族との間ですら、心理的な距離感があります。仙は梅子を気遣い、ベッドを室内に運び入れ、洋食も用意しました。
それでも、何かが違うのです。
津田梅子の救いは、ランマン夫妻に宛てて手紙を書くことくらいでした。ランマン夫妻は津田梅子を気遣い、アメリカに戻ってはどうかと進めて来ます。
しかし、津田梅子は母国に尽くしたいのです。
とはいえ、八方塞がりであることは確かなのです。あれほど聡明であった津田梅子も、日本ではこんな扱いです。
「行かず後家」
「売れ残り」
女子は14歳から16歳で結婚する――それが当たり前の時代でした。
①アメリカに戻るのか?
②目的を模索するのか?
③結婚か?
津田梅子はじめ、帰国したトリオにつきつけられたのは、こんな選択肢しかなく、梅子以外の二人は、三番目を選んでいます。
永井繁子は、津田梅子帰国の一ヶ月後には瓜生外吉と結婚してしまいました。
女子教育事業を始めたい山川捨松は資金繰りに悩み、結果、仇敵とも言える薩摩・大山巌との結婚を選びました。
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薩摩と会津のカップル――捨松が「鹿鳴館の華」となったことから、ときにシンデレラストーリーのような美談とされることもありました。
しかし、津田梅子の目からみると、生々しい本音が垣間見えます。
アメリカ時代は「スティーム(蒸気)」というあだ名で、木登りも楽しんでいた捨松。
そんな彼女の性格的に、この結婚は納得できるものであったのでしょうか?
のちに、彼女は人生で最も楽しかった時代は、アメリカにいたころだと振り返っています。
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大山と結婚する前に、捨松へ想いを寄せている、年齢も近く眉目秀麗、初婚である男性がいました。捨松はどうせなら彼の思いに応えたかった、と振り返っています。
繁子は自分のものとちがい「愛がない結婚」だと苦い顔であったとか。
日本では、愛のない結婚はごく当たり前のこと。津田梅子自身そうわかりつつも、複雑な心境です。
梅子からすれば、捨松の結婚は女子教育という目標を投げ捨てた、挫折の結果なのでした。
ダンサーになったとしても、捨松は幸せであったか。そこはわかりません。
そんな津田梅子を見て、捨松は懸念を捨てきれません。
梅子の性格は教育には不向きなのだから、結婚すればいい。親友の捨松すら、そう思っていたほどなのです。
捨松ですら、津田梅子の秘めた激情はつかみかねていたのでしょう。
日本の女子よ、たちあがれ
津田梅子は日本での女性の地位、男性の横暴に怒りを覚えていました。
日本の男性が横暴であるのは、母、姉妹、妻たちが甘やかすからだ!
そう怒りを見せています。
いっそ死んで日本女性の地位が高くなるなら、そうしてやる!
そうランマン夫人の手紙で書いてしまうほど、津田梅子は苛立っていました。
そんな中、帰国して一年ほど過ぎたあと、捨松が結婚した明治16年(1883年)秋のことです。
津田梅子は繁子から、鹿鳴館の舞踏会に招かれます。
ただの社交パーティではありません。人脈を掴み、なんとか道を見出したい――津田梅子はそんな想いを秘め、参加します。
と、一人の男性が近づいて来るではありませんか。
「私が誰だかおわかりですか?」
「さあ、どなたでしょうか」
「伊藤ですよ。覚えておりませんか」
なんと、伊藤博文でした。
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この舞踏会の半月後、19歳の誕生日目前のこと。伊藤からこんな話が届きました。
「桃夭女塾で教えませんか?」
ついでに、伊藤の家での家庭教師も頼まれました。
「桃夭女塾」とは、女官であり歌人でもあった下田歌子が始めた女子教育機関です。
ただ、名前からして津田梅子の性質にあっていたかどうか。
『詩経』のこの一節から取られています。
「美しきこと夭(わか)き桃の如し」
おとなしく、可憐な女性であれ――そうした目的を感じます。
塾にせよ、伊藤家にせよ、津田梅子は満足しなかったようです。伊藤は教育熱心ではなく、娘二人もさして情熱がありませんでした。
アメリカ帰りの家庭教師を、ステータスシンボルとして雇用しただけでは?
そんな疑念が出てきても、おかしくはありません。
津田梅子自身は、下半身事情が放埓である伊藤本人にも強烈な嫌悪感があったようで、赤裸々に批判を書き残しています。
これを堅苦しい若い女の目ゆえと言い切って良いものかどうか。
なにせ、明治天皇ですら伊藤の性的な放埓さには呆れていたほどなのですから。
明治17年(1884年)、津田梅子は伊藤家を辞しました。
母が妊娠し、姉は結婚しているため、家事手伝いをしなければならないということが、表向きの理由。
そのころ、伊藤は捨松、下田歌子らとも相談し、華族女学校を設立すべく動いていました。
母の手伝いがあれども、そこへ就職したいと考えていた津田梅子に対し、きっと声がかかると捨松は励まします。
明治18年(1885年)、はたして帰国後三年目にして、津田梅子は念願の教員としてのポストをここで得たのでした。
国費留学生として、国に恩返しもできる。そう張り切る津田梅子。
任命後一年もたたないうちに奉任官となり、その年俸は500円という破格の地位でした。
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