津田梅子

明治23年(1890年)ブリンマー大学在学時の津田梅子/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

6才で渡米した津田梅子が帰国後に直面した絶望~女子教育に全てを捧げて

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女子教育は、花か、実か

しかし、津田梅子の期待はやがて失望に変わります。

明治政府の女子教育の方向性は、華やかなお人形のような女子を育成すること。

おしとやかで、かわいらしい。しかし、自分の意見は言わない。知的には生ぬるい。そんな女子育成が目的であったのです。

幼い頃から、納得がいかなければ言い返してきた。そんな津田梅子からすれば、失望を覚えるものでした。

武家女性の教育からすると、後退した部分もあったことでしょう。

江戸以前は女子は無学であるべきだという風潮もあったものの、来日外国人が驚くほど男女双方の識字率は高いものでした。

このころは、津田梅子の人生でも短く華やかな時代です。

時は鹿鳴館時代。

女学校の少女たちは、舞踏会に引っ張り出されました。津田梅子もしばしば参加しています。

しかし、この時代もスキャンダラスな終わりを迎えるのです。

明治20年(1887年)、鹿鳴館での仮装舞踏会で、ベネチア紳士に扮した伊藤博文が失態をやらかしたのでした。

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岩倉具視の二女・戸田極子は、際立った美貌で有名でした。夫と参加していたそんな極子に、伊藤は関係を迫ったのです。

女性の権利向上を目指す『女学雑誌』が、このスキャンダルをスクープしました。

贅沢だ。

猿真似だ。

なにかとそんな批判を浴びた鹿鳴館時代は、これを機に終わりへと向かうのでした。

伊藤は梅子を教育へと誘ったものの、女性の権利は理解していなかったのでしょう。

日本そのものがそうでした。

津田梅子の同志である下田歌子や捨松は、マスコミのスクープにさらされ心を痛めています。

物言う女の苦しみに、梅子は疲れていました。日本を離れることを望み始めたのです。

そんな津田梅子に、再留学の話が持ち上がります。

留学時代、捨松と親しくしていて姉妹同然であったアリス・ベーコン。

アリス・ベーコン/wikipediaより引用

彼女が来日し、津田梅子を留学生として、新設の女子大ブリンマー大学へ推薦したのでした。

 


ブリンマー大学で学ぶ

創設わずか四年目。

フィラデルフィアにあるブリンマー大学に入学した津田梅子は、羽をのびのびと伸ばします。

ブリンマー大学/wikipediaより引用

堅苦しい日本の生活から解き放たれ、際立った聡明な学生として、生物学を専攻するのでした。

留学二年目後半は、生物学だけではなく教授法も学びます。日本から許可を得て、女子教育を学ぶという条件付きで、期間を一年延長したのでした。

さらに津田梅子は「日本婦人米国奨学金」または「ジャパニーズ・スカラシップ」と呼ばれる制度を、メアリ・H・モリスらアメリカ人女性の協力を受け、設立します。

志ある女性が、経済的に不自由なく学べるよう、尽力したのでした。

日本の女子教育は、アメリカ人女性の尽力なくしては成立していません。

捨松の兄・山川健次郎も、アメリカ留学中に政府から学費を打ち切られています。

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彼が勉学を続けられたのは、学友の母であるアメリカ人女性支援のおかげでした。国境を超えた善意が、日本の教育を前進させたのです。

かくして津田梅子の夢は、再留学の3年間でさらに燃え上がってゆきます。

 


ナイチンゲールと意気投合

津田梅子は、女子教育のための塾設立を胸に秘めていました。

日清戦争で浮かれる日本で、梅子はその目的を考え続けます。

なぜ、国の援助の元でそうしなかったのか。それは、国の考える女子教育との違いがあったことでしょう。

こうした思いは、津田梅子一人だけではありません。

実業家の広岡浅子は、成瀬仁蔵の協力を受け、明治30年(1897年)には女子大学創設発起に動き出します。

この願いは、明治34年(1901年)に実ることとなります。

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津田梅子はヘレン・ケラーに面会し、その情熱に感銘を受けています。障害をものともしない教育に、感動しないはずがなかったのです。

明治31年(1898年)、女子教育視察のため津田梅子はイギリスへ向かいます。

オックスフォードに滞在し、ナイチンゲールと面会。彼女から受け取ったスミレは、押し花にして持ち帰りました。

この押し花は、現在も残っています。

ナイチンゲールは、「白衣の天使」というあだ名から、穏やかな女性だと思われがちです。

実はまったくそうではありません。

データを分析し突きつけ、政府を黙らせる。ワーテルローの英雄であるウェリントン公を「時代遅れ」と容赦なく批判する。

そういう強気でデータ重視の性格です。

津田梅子がそんなナイチンゲールと面会し、発奮しました。

意気投合するものがあったのでしょう。皮肉にも、津田梅子が女子教育において合致したのは、海を越えた海外の女性ばかりでした。

日本には、男性はおろか女性ですら、津田梅子の大志を理解できる人物は少なかったのです。

明治32年(1899年)には高等女学校令が発布されました。

翌年には、52校、1万2千人にまで学生が増加しています。

とはいえ、高等といっても男子の中学程度のカリキュラムです。

就職先も、女子高等師範学校のみ。かたちだけ整え、女子学生の進路を考えていたとは思えません。

女の道は結婚のみ。

その考えは強固なものでした。

だからこそ、津田梅子は立たねばならない。そんな時代の流れでした。

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