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【津田梅子】
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女子教育は、花か、実か
しかし、津田梅子の期待はやがて失望に変わります。
明治政府の女子教育の方向性は、華やかなお人形のような女子を育成すること。
おしとやかで、かわいらしい。しかし、自分の意見は言わない。知的には生ぬるい。そんな女子育成が目的であったのです。
幼い頃から、納得がいかなければ言い返してきた。そんな津田梅子からすれば、失望を覚えるものでした。
武家女性の教育からすると、後退した部分もあったことでしょう。
江戸以前は女子は無学であるべきだという風潮もあったものの、来日外国人が驚くほど男女双方の識字率は高いものでした。
このころは、津田梅子の人生でも短く華やかな時代です。
時は鹿鳴館時代。
女学校の少女たちは、舞踏会に引っ張り出されました。津田梅子もしばしば参加しています。
しかし、この時代もスキャンダラスな終わりを迎えるのです。
明治20年(1887年)、鹿鳴館での仮装舞踏会で、ベネチア紳士に扮した伊藤博文が失態をやらかしたのでした。
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岩倉具視の二女・戸田極子は、際立った美貌で有名でした。夫と参加していたそんな極子に、伊藤は関係を迫ったのです。
女性の権利向上を目指す『女学雑誌』が、このスキャンダルをスクープしました。
贅沢だ。
猿真似だ。
なにかとそんな批判を浴びた鹿鳴館時代は、これを機に終わりへと向かうのでした。
伊藤は梅子を教育へと誘ったものの、女性の権利は理解していなかったのでしょう。
日本そのものがそうでした。
津田梅子の同志である下田歌子や捨松は、マスコミのスクープにさらされ心を痛めています。
物言う女の苦しみに、梅子は疲れていました。日本を離れることを望み始めたのです。
そんな津田梅子に、再留学の話が持ち上がります。
留学時代、捨松と親しくしていて姉妹同然であったアリス・ベーコン。
彼女が来日し、津田梅子を留学生として、新設の女子大ブリンマー大学へ推薦したのでした。
ブリンマー大学で学ぶ
創設わずか四年目。
フィラデルフィアにあるブリンマー大学に入学した津田梅子は、羽をのびのびと伸ばします。
堅苦しい日本の生活から解き放たれ、際立った聡明な学生として、生物学を専攻するのでした。
留学二年目後半は、生物学だけではなく教授法も学びます。日本から許可を得て、女子教育を学ぶという条件付きで、期間を一年延長したのでした。
さらに津田梅子は「日本婦人米国奨学金」または「ジャパニーズ・スカラシップ」と呼ばれる制度を、メアリ・H・モリスらアメリカ人女性の協力を受け、設立します。
志ある女性が、経済的に不自由なく学べるよう、尽力したのでした。
日本の女子教育は、アメリカ人女性の尽力なくしては成立していません。
捨松の兄・山川健次郎も、アメリカ留学中に政府から学費を打ち切られています。
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彼が勉学を続けられたのは、学友の母であるアメリカ人女性支援のおかげでした。国境を超えた善意が、日本の教育を前進させたのです。
かくして津田梅子の夢は、再留学の3年間でさらに燃え上がってゆきます。
ナイチンゲールと意気投合
津田梅子は、女子教育のための塾設立を胸に秘めていました。
日清戦争で浮かれる日本で、梅子はその目的を考え続けます。
なぜ、国の援助の元でそうしなかったのか。それは、国の考える女子教育との違いがあったことでしょう。
こうした思いは、津田梅子一人だけではありません。
実業家の広岡浅子は、成瀬仁蔵の協力を受け、明治30年(1897年)には女子大学創設発起に動き出します。
この願いは、明治34年(1901年)に実ることとなります。
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津田梅子はヘレン・ケラーに面会し、その情熱に感銘を受けています。障害をものともしない教育に、感動しないはずがなかったのです。
明治31年(1898年)、女子教育視察のため津田梅子はイギリスへ向かいます。
オックスフォードに滞在し、ナイチンゲールと面会。彼女から受け取ったスミレは、押し花にして持ち帰りました。
この押し花は、現在も残っています。
ナイチンゲールは、「白衣の天使」というあだ名から、穏やかな女性だと思われがちです。
実はまったくそうではありません。
データを分析し突きつけ、政府を黙らせる。ワーテルローの英雄であるウェリントン公を「時代遅れ」と容赦なく批判する。
そういう強気でデータ重視の性格です。
津田梅子がそんなナイチンゲールと面会し、発奮しました。
意気投合するものがあったのでしょう。皮肉にも、津田梅子が女子教育において合致したのは、海を越えた海外の女性ばかりでした。
日本には、男性はおろか女性ですら、津田梅子の大志を理解できる人物は少なかったのです。
明治32年(1899年)には高等女学校令が発布されました。
翌年には、52校、1万2千人にまで学生が増加しています。
とはいえ、高等といっても男子の中学程度のカリキュラムです。
就職先も、女子高等師範学校のみ。かたちだけ整え、女子学生の進路を考えていたとは思えません。
女の道は結婚のみ。
その考えは強固なものでした。
だからこそ、津田梅子は立たねばならない。そんな時代の流れでした。
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