昭和二十年(1945年)8月21日は、占守島の戦い(しゅむしゅとう)が終結した日です。
何となく聞き慣れない地名ですが、それもそのはず。
この島は現在日本の領地ではありません。
ロシアの実効支配下にある島です(TOP画像)。
まずは”どんな感じの地理的特徴を持ったところなのか”というところから、見てゆきましょう。
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樺太・千島交換条約で日本の領地
占守島は、オホーツク海の北方・カムチャッカ半島の先にあります。
最大幅が20kmほどで楕円形をした島。
西には幌筵(ほろむしろ or ぱらむしる)島があり、幌筵海峡が二つの島を隔てています。
外側はほとんど切り立った崖で、海抜200mぐらいの丘や沼地、草原が広がっています。
また、この辺の島によくあることで、夏は濃霧、冬は猛吹雪……という、とても厳しい気候条件。
そのことが、占守島や北方諸島での戦いに大きく影響しました。
占守島にはかなり古い時代から人が住んでいたようで、江戸時代あたりからロシアと日本の間で領土問題の一部として認識されていました。
明治時代に樺太・千島交換条約で占守島が日本の領地となり、それから軍が駐屯するようになります。
ソ連の作戦が開始されたのは日本降伏後の8月17日
第二次世界大戦では、陸軍の樋口季一郎を司令官とする第五方面軍の部隊が占守島と幌筵島に展開。
米軍の進攻を想定して防備を固めていました。
樋口季一郎とは、上海への亡命を計るユダヤ人を救った人物として、現代でも知る人ぞ知る軍人で、戦闘においても能力が高い人物として知られておりました。
※以下は樋口季一郎の関連記事です
ユダヤ人数千名を救った樋口季一郎とオトポール事件~キスカ島や占守島でも奮闘す
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しかし、実際に本格的な戦闘が行われたのは、大勢が決した昭和二十年(1945年)8月のこと。
相手は米軍ではなくソ連軍でした。
この頃には本土決戦を見越し、中央に戦力の集中が進められていたのですが、それでも占守・幌筵島にはある程度の戦力と物資が残っていました。
特筆すべきは、満州から転属されていた戦車第11連隊です。
旧陸軍の精鋭部隊のひとつで、11を漢数字「十一」で縦書きにすると「士」と見えるため、「士魂部隊」という愛称がついていました。
これは現代の陸上自衛隊にも受け継がれています。
占守島の兵力は、全島で8,500人ほどでした。
そして本土では玉音放送が流れていた8月15日、ソ連軍は占守島を含めた千島列島北部の攻略開始を決定するのです。
12日ごろからそれらしき行動はしていたようですが、正式に作戦が開始されたのは17日のことでした。
ソ連軍の飛行機による偵察や爆撃の後、上陸が開始したのです。
日本軍は北海道の司令部から
「18日16時の時点で停戦し、こちらからソ連軍へ軍使を派遣すること」
「敵が戦闘をしかけて来た場合、自衛を目的とした戦闘はしても良い」
と命令されていました。
少しは警戒していたが、基本的には攻め込まれまい
こうした命令は、17日までに各部隊へ伝達され、武装解除の準備を進め、化学兵器の海没処分なども済ませていたといいます。
また、同じく17日に対岸のカムチャッカ半島沿岸に船が多数行き来しているのは見ていたそうです。
しかし「国が既に降伏を発表しているのだから、ここへ攻め込まれることはないはず」と考えていたのだとか。
すぐに内地へ戻れると考え、備蓄していた酒や羊羹などでささやかな酒宴をしていた隊もあったようです。
それでも念のため、沿岸部では警戒と少々の武器の準備はしていました。
ソ連軍は18日未明、占守島の北辺・竹田浜から上陸。
武器の過重積載のため船が浜辺に接岸できず、泳いでの上陸という強行でした。
当日の気温・水温はわかりません。
北海道に近いオホーツク海南部では、現代の真夏でも水温一ケタだそうです。
それより、はるか北方の占守島付近であれば、もっと低かった可能性もあるでしょう。
どの辺りから泳いで渡ったのか不明ながら、距離によっては途中で溺死した兵もいそうですね……。
竹田浜に配置されていた防衛部隊は直ちに迎え撃ちました。
が、日の出前にソ連軍の上陸は開始されており、午前10時頃には上陸を完了させてしまいます。
日本軍の砲撃によってソ連軍はほとんど武器を持ち込むことができなかったそうですから、彼らにとっては「ベストではないがベター」というところでしょうか。
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