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【占守島の戦い】
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マッカーサーへ頼むも、あのスターリンが……
悪天候により、両軍とも飛行機による攻撃はほぼできなかったといいます。
ソ連軍上陸の報は直ちに北海道の司令部に伝えられ、司令官である樋口は反撃を指示。
同時に幌筵島の部隊にも占守島へ向かうよう命じています。
既に樺太もソ連に攻撃されており、どちらかが先に落ちれば、もう一方も危うくなる可能性が非常に高かったからです。
この状況では、両方共に善戦させて時間を稼ぎ、頃合いを見計らって停戦交渉をするしかありません。
戦車第11連隊は、対戦車武器で武装したソ連軍と激しく戦い、足止めしていました。
18日午後には日本軍が奮闘して島内の要所を確保し、ソ連軍を殲滅できる状況を確保。
しかし北海道から「戦闘停止・自衛戦闘移行」の命令が届いたため、16時には積極的戦闘をやめる予定で行動を切り替えようと試みました。
が、実際には戦闘が続きます。敵はそんなこと知りませんからね。
その頃、司令官である樋口は大本営に占守島の状況を報告していました。
そして大本営からマッカーサーへ「ソ連との停戦」を仲介してくれるよう依頼したのですが、あのスターリンがそんなこと聞くわけなく……。
実は18日中にも、占守島の日本軍は停戦を持ちかける軍使を送っていたのですが、ソ連軍に拘束されてしまったため、話し合いにすらなりませんでした。
さらに19日にも別の人が使者に立ち、ソ連軍と接触できたものの、向こうは「責任者じゃなきゃ話ししません」と主張。
そのため日本軍の参謀や旅団長などが出向いています。
ソ連軍の方が圧倒的に被害大
こうして行われた会談で、ソ連側から停戦と武装解除が要求され、日本側は最終的に同意しました。
しかし翌20日、未だ停戦・武装解除が整っていない状況でソ連艦隊が幌筵海峡に侵入したため、日本軍が警告射撃を行うと、ソ連艦隊は艦砲射撃を開始し、戦闘が始まってしまいます。
ソ連側では「昨日、停戦したのだから、海峡に入ることに問題はないはず」と思っていたそうです。
普通、武装解除まで確認してからじゃないかと思うのですが、たぶん言い訳なんでしょうね。
そんなことがあったため、地上でも戦闘が再開されてしまいます。
21日朝に改めて降伏・武装解除の最後通牒が出され、同日夜に日本側が回答。
23日にソ連軍の監視の下で武装解除されて、ようやく降伏が成立しました。
降伏したのは日本軍ですが、死傷者はソ連側のほうが多かったとされています。
状況が状況なので正式な数は不明ながら、ソ連側では、日本軍の死傷者が1,000名、ソ連軍が1,567名としています。
日本側の推定では日本軍600、ソ連軍3,000という数字があるそうで。
数にバラつきがあり過ぎですが、日本側のほうが圧倒的に被害が少なかったということは間違いなさそうです。
それは下記のような日本軍にとっての好条件が重なったからだと考えられています。
・上陸できるような浜辺が少なく、迎撃地点を絞り込むことができた
・悪天候で飛行機からの爆撃や、艦砲射撃があまり有効でなかった上、ソ連軍の物資・武器輸送もスムーズに行われなかった
・前述の通り、占守島ではこれまで戦闘がほとんどなかったため、日本側の物資や兵の損耗が少なく、短期間ならば戦闘に耐えられた
しかし、占守島守備隊の受難はそれからでした。
武装解除・降伏の後、占守島の日本兵はしばらく現地で使役された後、シベリアへ連行されてしまったのです。
ソ連軍を相手に最後まで国を守った兵たちにとって、あまりに辛い結末。
一人でも多くの方が帰国を果たした――と願わずにはいられません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎 (文春新書)』(→amazon)
占守島の戦い/wikipedia
占守島/wikipedia