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三世一身法
養老七年(723年)に出されたのが【三世一身の法】でした。
「新しく用水路を作って田畑を開墾すれば、本人・子・孫の代まで所有を認める」という法律であり(既存の水路を使った場合は本人の代のみ)、これで新田を増やし、税収をUPさせようとしました。
なんだか非常に効果のありそうな施策ですが、以下のような流れで三世一身の法は決定打となりません。
・人口の増加に対して口分田が不足してしまった
↓
・土地を開発しても、荘園主に囲い込まれてぶん取られる
↓
・結果、農民がやる気を無くす(そりゃそうだ)
↓
・政府としても税収が上がらなくて困る
↓
・悪循環/(^o^)\
そんなわけで三世一身の法は20年ほどで終わってしまい、「これ、マジやべぇ」(超訳)と気づいた朝廷は更に手を打ちます。
天平十五年(743年)の【墾田永年私財法】です。
墾田永年私財法
墾田永年私財法とは書いて字のごとく、
「新しく田畑を開発した場合、その土地は永久的に開発者のものにしていいよ(ただし米の税=租は納めてね♪)」
という法律です。
最大の目的は、農民の意欲を高め、税収を上げることでした。
仮に税として米を持っていかれても、土地が残るという自身の努力が報われれば、そりゃあヤル気も出ると踏んだのでしょう。
同時に、土地開発のための手続きや、位階による土地所有の制限が設けられました。
しかし、それが良くなかった。
「位階が高い=エライ人ほど大地主になれる」と公言してしまったことにより、有力貴族ばかりがより大規模な荘園を持ててしまう環境になったのです。
貴族たちは農民を雇って広大な土地を開発させ、みるみるうちに大地主に……って、そりゃ、そうなりますわな。
また「農民が公水(国が開いた用水路)を使って土地を開発すると、その土地は国のものになってしまう」という決まりがありました。
つまり、自力で開発した土地を自分のものにするためには、用水路も自分で作らなければならないわけです。
これでは結局、元々お金と労力を持っている人しか自分の土地を持てません。
かくして貴族や大寺院が荘園の主となり、費用がない農民は大荘園に雇われて畑仕事をせざるを得ず、権力構造は変わりませんでした。
例えば、東大寺が越前国の桑原荘を開墾するとき、近隣の農民に呼びかけて「一町=稲100束」の報酬で働かせていた――そんな記録もあります。
農民が自分の土地を持つようになり……
当時の税は米だけではありません。
その土地で採れる野菜や海産物、一定期間の賦役など、重い税がかけられていました。
新しく開墾した土地については租だけで良いにしても、他の土地にはこういった税もかかるわけです。
いくら働いても生活は楽にならず、権利もない農民たち。彼らがイヤになって逃げ出していくのも、無理のないことでした。
八世紀も終わり頃になると、荘園主はこういった農民たちをうまく利用するようになります。
地元(本籍地)を離れて流浪していた農民を、労働力として組み入れたのです。
先程説明した「自墾地系荘園」ですね。
しかし、時代が進んで九世紀になると、貴族や寺院の力が衰え、荘園も荒れがちになります。
それを見た農民たちは、荒れた荘園や未開発の土地を拓いて自分たちのものとし、自営を進めていきました。
そして、その土地を中央の上級貴族やお寺などに寄進して、権力の傘に入ろうとします。
これが【寄進地系荘園】です。
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