寛弘二年(1005年)9月26日は、陰陽師として有名な安倍晴明が亡くなった日とされています。
安倍晴明と言えば……。
妖怪をバッタバッタとぶっ飛ばす!
摩訶不思議な必殺技!
映画や小説から、そんなイメージが強いかもしれませんが、意外にも史実の彼は地味な存在だったようです。
さっそく振り返ってみましょう。
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表舞台に立ったのは40歳
彼が表舞台に出てきたのは40歳ごろと考えられています。
当時の平均寿命からすれば、かなりの高齢。
それまでは陰陽道や天文道といった学問を学んでいたそうなので「文字が読める=それなりの身分の家に生まれた」ことは確実ですが、具体的な家系などはわかっていません。
トンデモに近い説だと、阿倍仲麻呂の子孫説まであるとか。
仲麻呂本人は以前取り上げた通り、唐から帰ってくることはできませんでしたが、日本にいる間に子供がいたらしく、晴明はその子孫じゃないか?という説です。
繋がってたら面白いですけどね。
※以下は阿倍仲麻呂の生涯まとめ記事となります
天文学とはちょっと違う天文道を習得
さて、晴明が修めたとされる二つの学問について先にお話しておきましょう。
まず”天文道”というのは、今でいう天文学にあたり……ません。
どちらかというと占い的な要素が強く、科学的な理論体系を作っていくというよりは、日食・月食や彗星などの珍しい現象について意味を考えるというものだったようです。
どれも最終的には「イヤなことが起きるから見ないように!」とか「今の権力者がロクデナシだから起きたんだ!」といったテンプレ的な結論になるんですけども、まあこの時代だから仕方がない。
日本って「この時代によくこんな制度作ったな」っていうのがある一方、何か便利なものを新しく作るのは苦手な国のようです。
中国や西洋では天文学が発達して天球儀を作り、さらにこれを航海術にも活かして大航海時代に入っていったわけですが、そういう形跡もないようですし。
天体に関する記録が色々あるだけに、その謎を解明しようとか思わなかったのは不思議なところです。
枕草子にも「昴(プレアデス星団)や明けの明星(金星)っていいよね」(超訳)という話がありますから、当時の人が空に全く関心がなかったわけではないと思うんですけども。
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