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【平兼盛】
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「赤染衛門は平兼盛の娘だ」という話は残る
一方、兼盛には別の意味で後を引く……かもしれないエピソードがあります。
天徳内裏歌合の数年前、兼盛は妻と離婚したことがありました。
その妻は当時身ごもっていて、そのまま赤染時用(ときもち)という役人と再婚、後に藤原彰子の女房の一人・赤染衛門となる娘を産みます。
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現代でも、離婚を挟んで妊娠・出産があると揉め事になりますよね。
当時は離婚→結婚までの期間に関する定めなどもありませんから、当然、兼盛は「その子は私の娘ではないか?」と訴えました。
しかし時用も時用で「私はかなり前から妻と付き合っていたのだから、この子は私の娘だ」と譲りません。
それはそれでどうなのよ……という気もしますけれども、当時の恋愛事情からするとなくはない話です。
裁判の末、時用の言い分が認められ、赤染衛門は時用の娘としてその後生きていくことになります。
しかし、俗説として「赤染衛門は実は平兼盛の娘だ」という話は残り続けました。まぁ現代でさえDNA鑑定でもしなければ親子関係の証明は難しいですしね。
赤染衛門が長じて後、夫の大江匡衡(まさひら)と有名なおしどり夫婦になったことからすると、「自分の出生に関して、母の離婚が原因で世間にアレコレ言われるようになったから、自分はその轍を踏まないようにしよう」と考えていたのかもしれません。
ちなみに大江氏は後に、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも活躍した大江広元(匡衡から数えて七代目)を輩出し、そこからさらに枝分かれして、毛利氏などが出てきます。
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もしも「赤染衛門が兼盛の娘」で「赤染衛門は親の轍を踏むまいと心がけていた」としたら、その子孫である毛利元就が「一族の結束が大事である」と説いたことは、とても意味深な気がしますね。まぁ、突拍子もない話ですが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
平兼盛/wikipedia
壬生忠見/wikipedia
天徳内裏歌合/wikipedia