藤原氏といえば大河ドラマ『光る君へ』でも注目の藤原道長。
「この世をば~」の歌があまりに有名なため、まるで彼一人がスーパーマンのようにも思われますが、実際はさにあらず。
道長の時代以前にも、幾千もの権力争いがあり、その度に数多の藤原モンスターが現れ、そして次代へ引き継がれてきました。
今回の“日本史ワル査定”で注目したいのは、平安前期に【阿衡事件】や【応天門の変】に関わった藤原基経です。
以前、当コーナーで藤原時平を記事にしましたところ、
藤原時平は天神様を太宰府送り~お茶目な逸話もある左大臣の評価は?
続きを見る
読者さんから
「時平なんてまだ可愛い。父親のほうがよっぽどヤバイでしょ」
とコメントを頂きましたが、菅原道真を讒言で陥れた藤原時平の父にあたるのが基経です。
一体なにをしでかしたのか?
本稿では寛平3年(891年)1月13日が命日となる、藤原モンスターを振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
叔父もかなりの藤原モンスター良房
藤原基経は承和3年(836年)、中納言・藤原長良の三男として生まれました。
最初に少し、父・長良の話をしておきますと……。
彼は藤原冬嗣の長男。
一族の中で最もイケてる藤原北家の出で、当時のどエリートでありますが、長良は弟の藤原良房に出世競争で負けてしまいます。
ただ、大変性格の良い人だったので貴賎を問わず皆から慕われ、二人の兄弟仲も良好だったと伝わります。
そしてその子である基経は、男児のいなかった叔父・良房に見込まれて養子となりました。
この良房叔父さんがかなりの切れ者。
皇室以外で初めて摂政になった人物、かつ皇女を嫁にもらうという権力者にのしあがります。
藤原良房が皇族以外で初の摂政に就任! 貞観14年(872年)藤原無双が始まる
続きを見る
基経もその下で政治的手腕を遺憾なく発揮するようになりました。
応天門での放火事件をキッカケに
866年、応天門が放火され炎上するという大事件が起きました。
天皇の住まいと職場に近いところでの火事で、しかも放火ですから、単なる失火では済まされません。
直後に動いたのが大納言・伴善男(とものよしお)でした。
「犯人は左大臣の源信(みなもとのまこと)だ!」
として右大臣の藤原良相(ふじわらのよしみ)に訴えでたのです。
そこで良相は、すぐさま源信の逮捕を命じるのですが、ここで藤原基経が「ちょっと待ったぁああああ!」で、権力闘争の始まりです。
実は右大臣の良相とは、冬嗣の五男。
つまりは良房の弟であり、基経の叔父にもあたる人です。
しかもナイスガイで人気者だったので、ライバルとなる良房にとっては目の上のたんこぶでしかありません。
ちなみに良房は、伴善男とも源信とも仲良しではありません。彼らを助けようなんて気持ちはない。
ここで基経、太政大臣であった良房に「源信は無罪でしょう」と報告。
結果、良房の尽力で源信は無罪となり、その後のタレコミで「真犯人は伴善男だ」ということになり、自作自演乙という展開で伴善男は流罪となりました。
左大臣の源信をはめようとして伴善男が自滅した――そんな事件が【応天門の変】です。
藤原体制を盤石にした「応天門の変」真犯人は?伴善男の流罪で良房ウハウハ
続きを見る
良房から見れば、
・ライバルの伴氏が政治の舞台から消え、
・左大臣には恩を売ることができ、
・さらには良相を「あれ? 放火犯の伴善男とつるんでたよね?」とプレッシャーをかけノイローゼにしちゃう
という一石三鳥。
ゆえに伴善男は本当に犯人だったのか?と疑念も残されているほどです。
融君は天皇になれま……しぇ~ん!!
かくして順調に出世した藤原基経は、義父の良房が亡くなった後、朝廷で権力を握ります。
時の天皇である清和天皇は、良房の孫にあたり基経とも血縁。
しかも清和天皇の女御である高子は、基経の実妹であり、皇子を2人産んでおりました。
清和天皇は高子の息子に譲位し、9歳の幼帝・陽成天皇が即位します。
と、ここで伯父である基経は摂政となったわけです。
武士の代表・清和源氏のルーツ「清和天皇」ってどんな方だった?
続きを見る
しかーし、色々あって基経と高子は兄妹ながら犬猿の仲であり、成人した陽成天皇と基経の仲もこじれました。
陽成天皇は行いが粗暴だったこともあり、退位を迫り、これを実現させます。
ここで基経が次の天皇に据えたのが仁明天皇の第3皇子であった時康親王。
基経の母方の従兄弟にあたり、性格はいたって穏やかであり、即位して光孝天皇となりました。
ちなみにこのとき左大臣・源融(みなもとのとおる)と基経の間でこんなやりとりがありました。
「俺、嵯峨天皇の皇子だし皇位継承できない?」
「姓をもらって天皇になった前例がないからダメ~!」
皇族から臣下になることを【臣籍降下】と言いますが、
皇位皇族と関わる「臣籍降下」とは?姓がある=皇族ではないの原則
続きを見る
源融はまさにそれで源氏の姓になっていました。
そのため「天皇になりたい」という申し出は一喝されます。
一方で、基経のおかげで天皇になれた光孝天皇は恩義を感じ「太政大臣である基経に政治を委任します」と実質上の関白宣言。
さらに光孝天皇は「ウチの皇子と皇女たち26人全員『源』にしました。臣下にしたから皇位継承しないよね」とアピールしました。
なぜ、そんな極端なことをしたのか?
というのも光孝天皇、
『基経は甥にあたる陽成天皇の弟を次の天皇にしたいのだろう……』
と空気を読んだのですね。
ここまで天皇に気を遣わせるって凄まじいです。
※続きは【次のページへ】をclick!