たとえ歴史が苦手でも、誰もが何となく聞いたことがある――有名な事件ってありますよね。
戦国時代で言えば本能寺の変。
近現代なら二・二六事件や五・一五事件。
いずれも小学生の歴史で取り扱われるほどメジャーな出来事ですが、では平安時代で最も著名な事件って何なのか?
やっぱり【平将門の乱】でしょう。
関東で反乱したっていう設定もなんだか「武士!」というイメージが強いですし、さらには首塚や呪いの話まであって、話題性には事欠きません。
実は今も、東京駅からスグのところに首塚があって、それを取り壊せないために、周囲を囲うようにしてビルが建っています。
かつてGHQが撤去しようとして事故が起き、結局、そのままにしたっていう怖すぎる経緯もあるのです。
そんな平将門とは一体どのような人物だったのか。
なぜ乱を起こしたのか。
さらには、どうして怨霊とまでいわれるようになってしまったのか。
天慶3年(940年)2月14日が命日である将門の生涯を振り返ってみましょう。
一つずつ見て参りましょう。
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高望王の孫だった
まずは、この乱が起きた10世紀前後の世情について簡単に見ておきましょう。
将門が生まれるよりも少し前から、関東ではとある傾向が固まっていました。
国司として京都から派遣されてきた貴族が、地元の有力者たちと婚姻関係を結び、勢力を拡大していたのです。
そんなことがあっちこっちで起これば、当然衝突も起きるようになっていきます。
何かトラブルが起きれば、その解決のため朝廷が一肌脱ぐ場面ですが、この頃の中央政府には「地方を治める」とか「地方の治安維持をする」といういう概念も武力も強くはなかったので、自力でどうにかするしかありません。
そうした関東の有力者の中には、臣籍降下した元皇族の末裔も含まれていました。
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将門もそうした家系の一人。
桓武平氏――具体的には、桓武天皇のひ孫・高望王(たかもちおう)の息子が将門の父だといわれています。
桓武天皇
↓
子
↓
孫
↓
ひ孫(高望王)
↓
将門の父
↓
平将門
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上記のように把握しておくと、多少わかりやすいですかね。
伯父の平国香と対立
将門が成人する頃、彼らは現在の茨城県常総市付近をシマにしておりました。
そして将門がそれを受け継ぐと、伯父の平国香などと対立。
小競り合いが頻発するようになり、国香と姻戚関係にあった源護(みなもと の まもる)とも一戦交えます。
実はそこまでの詳しい経緯がはっきりわかっていないのですが、仮説としては
・将門と護が女性に関する議論で大ゲンカになった
・源護と平真樹(まきorまさき)という豪族が領地争いをしており、将門がその仲介を務めた
などがあります。
どっちにしろ、ありがちな土地争いというか、いかにも古代の話らしいというか。
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親戚同士のドンパチなら、長引くことこそあれ、公的に大きく取り沙汰されることはそうそうありません。
しかし、護は地元での小競り合いだけでは済ましませんでした。
中央政府に採決を仰いだのです。
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